KATHY (5)
ところで、最近の女性グループとしては、彼女たちのことも考えてみたい。
プロジェクト大山 キャッチ・マイ・ビーム!
考えてみたいのだけれど、ぼくはあまり知りません。もちろん、昨年トヨタ・コレオグラフィー・アワードを受賞したことは知っています。その日の上演も見ました。この成果からすれば、昨年の日本のダンスにおける最も評価されたグループのひとつということになるでしょうか。
ぼくは、彼女たちのダンスを見ていると、今日のダンスの状況というのがとてもよくあらわれているなと思う。
彼女たちのダンスは、ある独特なダンス言語を用いているように思う。それをモダンダンスといっていいのか、学校の体育ダンスの延長線上にあるもの、という気がする。彼女たちは、その自分たちの出自をかなり端的に(KATHYで用いた言葉で言い換えるならば、批評的にではなく)用いている。そのことが、今日のダンスの状況をよくあらわしていると思うのだ。
趣味の共同体の並立。
批評的に、過去のさまざまなスタイルを引用して、そのあり方を反省するということではなくて、それぞれのお好みのスタイルのなかで遊ぶ。
彼女たちに限ったことではなく、それぞれがそれぞれの趣味に閉じてそれぞれの好みのなかに閉じている、と感じることが多い。
閉じているので、分かるひとには分かる、けれども、分からないひとには分からない。という状況で、ある意味では、健全だ。ひとに迷惑をかけない。
けれども、それぞれが閉じた状況では観客もそれぞれの趣味に閉じるので、客の増加は望めない。それぞれの言語で語っている限り、自分以外はすべて外人になってしまう。
外人にも通じるようにするにはどうすればいいか、ということで、出てくるのは、言語を解さなくても分かるものである審美性であったりする。美しさか崇高さ。「美しいー」と叫び、「こわー」と驚く。ここには観劇する足る実質があるように錯覚するなにかがある。
よくも悪くも、この審美性に向かいがちというのが、表現のひとつの傾向であろう。
なんだか、See Danceの趣旨から離れてしまいましたが、どうしょう、こりゃこりゃと思うのです。
いやいや、やっぱりこれは「ダンスでなにが見たいのか」ということに関わる話ですよね。
でも、
批評的である他に道はない気がするんですけれど、それはぼくがダンスをアートとして考えているからなんでしょうか。
あと、ダンスの難しさに、自分の身体からなかなか自由になれないということがあると思います。
絵画の道具が絵の具や絵筆やキャンバスだとすれば、ダンスの道具は身体。だとして、この身体は生きていているものです。そして、しばしば、コレオグラファー=ダンサーだったりして、この身体というものと距離がとれなかったり、縛られたりしがちです。
このことが、ダンス固有の価値でもあると思うんですけれど、同時に、ダンスが他の芸術表現のような自由さを獲得できないところでもあるように思います。
KATHYは、黒ストッキングを顔にかぶり、手にもストッキングをはいて、肌を消すことで、そうした難しさから脱することが出来ていると思うのですが、どうでしょうか。
それは間違いなくKATHYの発明でした。KATHYによって、踊る身体は、ある意味、身体でありつつ、絵の具や絵筆、キャンバスのような位置におかれうるものになりました。
個性を奪われ、ただの「踊る女の子」として踊る身体は、ここでいわば「レディメイド」化しました(デュシャンは、絵の具や絵筆やキャンバスは、工業製品であり、既製品(レディメイド)ではないか、と言っています)。
身体に対して、新しいアプローチをとることが出来るようになった。
身体に対して、個性とか、意志とか、「かわいい/かわいくない」の評価とか、抱かなくてすむようになった。(いかに、ぼくたちがそうした点に縛られているのかを意識させられることになった。)
このことは、なかなかに革命的だったと思います(先達として、ロイ・フラー、オスカーシュレンマー、アルヴィン・ニコライがいます。彼らの考えが一枚岩だとも、彼らとKATHYの狙いが同じとも思いませんが)。
無意識的にそう思い抱かれてしまうダンサー=「踊り子」という立場からダンサーを引きはがすことが出来た。
そもそも踊り子が生きていた、踊り子=人形(欲望の対象)という存在の仕方を、意識化することとなった。(この意識化を別の角度から積極的に展開しているのがオタク系文化だろうし、その成果として、先にあげた様な、AKB48といったアイドルの存在とダンスがある)
そして、「踊り子なるもの」について意識的に反省するダンス表現が可能になったわけです。
プロジェクト大山 キャッチ・マイ・ビーム!
考えてみたいのだけれど、ぼくはあまり知りません。もちろん、昨年トヨタ・コレオグラフィー・アワードを受賞したことは知っています。その日の上演も見ました。この成果からすれば、昨年の日本のダンスにおける最も評価されたグループのひとつということになるでしょうか。
ぼくは、彼女たちのダンスを見ていると、今日のダンスの状況というのがとてもよくあらわれているなと思う。
彼女たちのダンスは、ある独特なダンス言語を用いているように思う。それをモダンダンスといっていいのか、学校の体育ダンスの延長線上にあるもの、という気がする。彼女たちは、その自分たちの出自をかなり端的に(KATHYで用いた言葉で言い換えるならば、批評的にではなく)用いている。そのことが、今日のダンスの状況をよくあらわしていると思うのだ。
趣味の共同体の並立。
批評的に、過去のさまざまなスタイルを引用して、そのあり方を反省するということではなくて、それぞれのお好みのスタイルのなかで遊ぶ。
彼女たちに限ったことではなく、それぞれがそれぞれの趣味に閉じてそれぞれの好みのなかに閉じている、と感じることが多い。
閉じているので、分かるひとには分かる、けれども、分からないひとには分からない。という状況で、ある意味では、健全だ。ひとに迷惑をかけない。
けれども、それぞれが閉じた状況では観客もそれぞれの趣味に閉じるので、客の増加は望めない。それぞれの言語で語っている限り、自分以外はすべて外人になってしまう。
外人にも通じるようにするにはどうすればいいか、ということで、出てくるのは、言語を解さなくても分かるものである審美性であったりする。美しさか崇高さ。「美しいー」と叫び、「こわー」と驚く。ここには観劇する足る実質があるように錯覚するなにかがある。
よくも悪くも、この審美性に向かいがちというのが、表現のひとつの傾向であろう。
なんだか、See Danceの趣旨から離れてしまいましたが、どうしょう、こりゃこりゃと思うのです。
いやいや、やっぱりこれは「ダンスでなにが見たいのか」ということに関わる話ですよね。
でも、
批評的である他に道はない気がするんですけれど、それはぼくがダンスをアートとして考えているからなんでしょうか。
あと、ダンスの難しさに、自分の身体からなかなか自由になれないということがあると思います。
絵画の道具が絵の具や絵筆やキャンバスだとすれば、ダンスの道具は身体。だとして、この身体は生きていているものです。そして、しばしば、コレオグラファー=ダンサーだったりして、この身体というものと距離がとれなかったり、縛られたりしがちです。
このことが、ダンス固有の価値でもあると思うんですけれど、同時に、ダンスが他の芸術表現のような自由さを獲得できないところでもあるように思います。
KATHYは、黒ストッキングを顔にかぶり、手にもストッキングをはいて、肌を消すことで、そうした難しさから脱することが出来ていると思うのですが、どうでしょうか。
それは間違いなくKATHYの発明でした。KATHYによって、踊る身体は、ある意味、身体でありつつ、絵の具や絵筆、キャンバスのような位置におかれうるものになりました。
個性を奪われ、ただの「踊る女の子」として踊る身体は、ここでいわば「レディメイド」化しました(デュシャンは、絵の具や絵筆やキャンバスは、工業製品であり、既製品(レディメイド)ではないか、と言っています)。
身体に対して、新しいアプローチをとることが出来るようになった。
身体に対して、個性とか、意志とか、「かわいい/かわいくない」の評価とか、抱かなくてすむようになった。(いかに、ぼくたちがそうした点に縛られているのかを意識させられることになった。)
このことは、なかなかに革命的だったと思います(先達として、ロイ・フラー、オスカーシュレンマー、アルヴィン・ニコライがいます。彼らの考えが一枚岩だとも、彼らとKATHYの狙いが同じとも思いませんが)。
無意識的にそう思い抱かれてしまうダンサー=「踊り子」という立場からダンサーを引きはがすことが出来た。
そもそも踊り子が生きていた、踊り子=人形(欲望の対象)という存在の仕方を、意識化することとなった。(この意識化を別の角度から積極的に展開しているのがオタク系文化だろうし、その成果として、先にあげた様な、AKB48といったアイドルの存在とダンスがある)
そして、「踊り子なるもの」について意識的に反省するダンス表現が可能になったわけです。
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by kmr-sato
| 2011-02-20 10:21