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「現代のアイドルとしてのAKB48」(4)

16               アイドルというと、これまではテレビや雑誌などのメディアを通してしか見ることの出来ない遠い存在であった。実在する人物であるのに、人々にとっては非現実的な存在として受け止められる。コンサートのチケットが取れたからと言って、大きなコンサート会場では、本物は肉眼ではほとんどよく見えない。だがその非現実感や距離感が、アイドルの良さであり、アイドルを、よりアイドルらしく輝かせていた。
 しかし、現代人が欲しいのは、リアルさである。テレビのバラエティー番組をつければ可愛いタレントやアイドルは幾らでもいて、彼女たちの「かわいい」のパターンはほとんど決まってきており、ワンパターン化しつつある。さらに言えば、完成された「かわいい」アイドルを見飽きてしまった感もある。テレビにアイドルが映ろうとも、メディアを通して見ることに慣れている現代人にとっては、記号的にしか映らないのである。インターネットが普及した今の時代には、現実感の無いものは響かない。現代人は、テレビに映る芸能人を見るよりも、芸能人たち本人が更新しているブログをチェックすることの方が頻繁になってきているようにも感じる。テレビでは明かされない、彼らの日常や、本音に興味があるのである。
AKB48は、こういった現代社会に沿う形でプロデュースされたアイドルではないだろうか。今までのアイドルと違うところは、秋葉原にあるAKB48劇場で、ほぼ毎日公演を行い、間近で本人たちを見られるということだ。そして、彼女たちは歌やダンスの経験がなくても、1~2か月のレッスンでデビューするため、公演を通して日々成長していく姿を見ることが出来るため、ファンとの距離感は公演を行う度に縮まっていくだろう。そして、13枚目のシングル曲では、選抜総選挙が行われ、上位の21名がシングル曲を歌うことが出来る仕組みになった。毎年行われるようになったこの総選挙では、ファンの投票によってAKBメンバーの順位が決まるため、ファンにとっては、自分の投票がメンバーの運命を握っているとも言える。そして発表される順位に喜怒哀楽し、より一層、メンバーへの愛着が湧くのかもしれない。
今や社会現象とも言えるほどにAKB48が時代の波にのっているのは、他のアイドルと違い、こういった日々の公演や選挙によって、ほかのアイドルには無い、密接なファンとアイドルとの関係や、メンバーへの思い入れが生まれるように構成されていることが、その要因の1つと言えるだろう。AKB48は、今までのアイドルたちが築いてきた形式立った素振りや笑顔の可愛さ以上に、自分が種を蒔いて育てた花のような可愛さを持ち合わせているのではないだろうか。

17               AKB48のコンセプトとして有名なのが「会いに行けるアイドル」である。AKB48劇場という専用の劇場で毎日公演を行うことによって、今まで遠い存在とされてきたアイドルを身近に感じてもらい、成長過程をみてもらおうという意図がある。このコンセプトに基づくAKB48とファンの関係は、今までのアイドルとファンの関係には見られなかった点がある。AKB48が行なっているあるイベントを例に挙げて考察していきたい。
各メディアに大々的に取り上げられ、AKB48の知名度を全国的なものとした選抜総選挙に注目したい。この選挙はファンの投票によって選抜メンバー、メディア選抜が選ばれるというものである。よってメンバーが歌えるか歌えないか、メディアに出られるか出られないか、決めるのはファンということになるが、この点は今までのアイドルとファンとの関係とは異なると感じる。今までのアイドルを応援する手段はCDの購入、ライブの参加が主であり、アイドルが自身のパフォーマンスをファンに与えるといった、ファンが受動的になる関係性を両者は築いていた。しかし、AKB48とそのファンの場合、ファンの投票はメンバーそれぞれの活動の範囲や内容に直接関与してくる。ただ公演を見ることによって身近に感じるだけではなく、メンバーの活動に意見を言えることでも身近に感じられるのでないだろうか。そしてアイドルがパフォーマンスを与えるだけではなく、それを見るファンもそのパフォーマンスやその内容に直接関与することでファンも能動的になっていると考えられるのではないだろうか。
近年、パフォーマンスを与えられるだけであった観客が共にパフォーマンスに参加したり関与したりする風潮が至るところで見られると私は思っている。パフォーマンスという非日常的な世界を傍観するだけでなく、その世界に自分も身体ごと入ってしまうのだ。例えばAKB48の公演でも見られる合いの手である「ヲタ芸」は観客も共に歌い、合いの手を叫ぶことで身体ごと参加していると言えるだろう。またアイドルとはまた違ったジャンルで、アメリカから日本に上陸し人気を博している『ブルーマン・グループ』だと観客がステージに上げられ巻き込まれることもあるそうだ。
このようなことを考えると現代のアイドルとしてのAKB48は、そのファンがどのメンバーにメディアに出てほしいか、歌ってほしいかを直接意見が言えるという、近年の「パフォーマンスと能動的観客」という関係性をおおいに語ることのできるものであると感じる。

18              現代のアイドルとして観たAKB48とは。それについて考えると、私がまず念頭にくるのはやはり「キャラ化」や「アイデンティティー」という単語である。これはAKBだけに見られる特性ではなく現在活躍しているアイドル、芸能人に見られる共通した特性ではないかと私は考えている。今まで、芸能人やアイドルと言われて思い浮かぶ単語は「綺麗」や「かわいい」「格好いい」といった外見的特性のみだったが、近頃はそれだけではないように思える。同じ「可愛い」「格好いい」という単語でもその意味が違ってきている。違ってきているとは具体的にどのような点でということを説明するのにいい一般例がある。「雰囲気、格好いい(イケメン)or可愛い」よく使われるこの言葉の「雰囲気」という所だ。初めは「服装」や「髪型」によるお洒落さによって格好良く、可愛く見えるという意味で使われてきたが、今は、文字通り「雰囲気」、その人の放つ言葉や性格の魅力を示しているようである。これに「可愛い」「格好いい」の変化は準ずるものではないかと私は思う。要は、外見<中身といってしまうと極端であるが、更に細かく定義するならば、視覚情報より個性を優先する世の中になりつつあるということである。ただの流行ではなくこれは、「ゆとり教育」が施行された頃から少しずつ浸透した新しい思想でもあるだろう。「個性」を要求された私たちはいつの間にか他人にも「個性」を要求するように、渇望するようになっているのかもしれない。そのように考えればまさに、AKB48は生まれるべくして生まれるべきアイドルといえよう。「被る(現代の若者が最も畏怖している)」ことのないキャラは「個性」を求められ、渇望している私たちにとって羨望するものであり、必要不可欠なものでもある。もしかしたら、AKB48の「キャラ」は参考に自らの「キャラ」を作る材料になるかもしれない。「○○になりたい」という言葉も「○○(キャラ)になりたい」と言い換えることは可能だろう。一昔前の「○○のようにスレンダーな体型になりたい」という意見は今では少数派なような気がする・・・。

19               AKB48が国民的人気に発展した要因を三点挙げるとするならば、まず、グループであるという点が挙げられる。現代のアイドルはグループという形態を取っていることが多いが、グループの場合、「この中で誰がいい?」という会話になりやすい。その結果、自分で好みの対象を選ぶという行為を行うことによる満足感、更 にはわずかにインボルブメント効果も起こしていると考えられる。インボルブメント効果とは、自分の関与したものを好きになってしまうという心理作用のことで、今までAKB48に興味がなかった人がこのように一人を選ぶことによって、AKB48との関わりができ、結果としてAKB48に興味を抱きやすくなるのだ。これはソロアイドルでは生まれない効果であり、グループであることの利点といえる。
 次に、接触回数が多いほど親近感が増すというザイオン効果を用いている点が挙げられる。現代的な媒体であるYouTubeの公式チャンネル、メンバーによるブログだけではなく、「会いに行けるアイドル」としての劇場での公演、握手会など、様々な場面でザイオン効果を用い、ファンにアイドルとの距離が物理的にだけではなく、精神的にも縮まったように感じさせているのだ。
最後に、アイドルとファンの共感という点が挙げられる。AKB48はメディアを通した遠い存在だったアイドルを身近に感じ、その成長していく過程をファンに見てもらい、共に成長していくアイドル・プロジェクトであり、一ファンである自分もそのプロジェクトメンバーであることを感じる演出がなされているのだ。その演出である選抜総選挙では、選抜メンバーを目指し頑張る アイドルの目標を叶えられるのは自分の一票なのだと感じるため、結果が出た時の嬉しさや悔しさをアイドルとファンは共有できるのだ。それが成立するのは、アイドルとファンの距離の近さによってであり、一ファンである自分が応援しているアイドルの力になれているのだとより感じることができるからこそ、アイドルとファン の間に共感が生まれるのだ。

20                AKB48と少女時代 ~日韓の民族性、音楽事情の比較~                                     
                  音楽番組を見ていて違和感を感じる時がある。ライブで歌を歌っている時ではなく、予め録音した音源に「口パク(「かぶせ」と呼ばれ、録音した音源を流した上で生歌を歌いマイクのボリュームで調節していることもある)」で歌を披露している時だ。
モーニング娘の後藤真希が体調不良でコンサートを退場した際に流れていた歌声。ミュージックステーションでジャニーズの山下智久がマイクを落とした時も何事もなく歌が流れていたように、辻褄の合わない事や不審に思う根拠等、しばしばファンの間では議論が巻き起こる。
「口パク」については、J-POPのみではなくマイケル・ジャクソンやマライア・キャリー等の洋楽の歌手、K-POPの歌手にも見られる事例である。以前は「テレビ局の音の環境が悪く生では歌えない」という意見もあったようだが現在ではその点も改善され、「激しい動きをしながら歌のクオリティを保つ為」等の理由でなされているようだ。
「口パク」関しては賛否両論があり、「歌手なのだから生で歌え」という意見、「(アイドルが)容姿で魅せる為ならば歌のクオリティは落としてもいい」という意見様々だ。ファンの中でのこの二者の対立は全てに共通して見られることと考える。
日韓の女性アイドルグループであるAKB48や少女時代も「口パク」をすることがある。しかし、韓国の音楽番組では以前「口パク」が問題として取り沙汰されて以来、生歌である時は画面上に「Live」の文字の表記、そうでない時は何もないというのが大きな違いとなっている。生歌披露にこだわる番組もあればそうでない番組もあるが、視聴者はそれがどちらなのかすぐに判断つくようになっている。
こういった白黒はっきりさせたがる所は韓国人の国民性とも言える。更に少女時代は曲中にほぼ9人のメンバー全員のソロパートが見られるが、AKB48はAメロやBメロであっても複数で歌うことが多い。
同時代の二国でそれぞれ人気を集めた2グループには、音楽業界事情以外にも人数、曲構成、ダンス等に違いが見られる。選抜メンバーと言えども10数名が横一列に並ぶような活動をしているAKB48には、個人の意思をはっきりと示さずに群れたがる日本人の姿が重ねて見えるような気がする。
# by kmr-sato | 2011-05-11 05:57

「現代のアイドルとしてのAKB48」(3)

11              AKB48は、秋葉原の劇場を中心に活動しているが、現在では全国で握手会を行ったり、毎日のようにテレビや雑誌、広告などで目にするような国民的アイドルグループになった。
 数多いAKB48の楽曲の中で、今回は「初日」の歌詞からAKB48について考えてみたいと思う。「初日」はAKB48チームB 3rd Stage「パジャマドライブ」の楽曲の一つで、12thシングル「涙サプライズ!」と2ndアルバム「神曲たち」にも収録されている。
チームBは、他のチームより下に見られることが多かった。しかし、チームBの「初日」はシングル曲や他のチームの曲をおさえて2009年のファン投票で1位に輝いた。他の年の投票を見ても、公演曲で1位になったのは「初日」のみである。このことから、この曲がAKB48ファンに絶大な支持を得ているということがわかる。
 「初日」は、自分たちがステージに立つまでの努力や苦労を歌詞にし、努力を重ねてステージに立ち続けようとする彼女たちの姿をそのまま歌にした曲である。本来のアイドルは努力や苦労を隠し、ステージに立つ。しかし、この曲ではステージに立てない、歌えないという不安に怯え、学校とレッスンの両立に悩み、周りのメンバーと自分を比べてしまうアイドルを目指す普通の女の子が描かれている。キラキラしたステージに立って、笑顔で歌い、踊っているが、影で様々な努力をし、悩み、苦しみながらも夢に向かって必死に頑張る彼女たちの姿を見て、ファンは自分の姿を重ね合わせ、夢や希望を抱くのだと思う。
 AKB48のデビューシングルであり、2008年のファン投票で1位になった「桜の花びらたち」のPVでも、厳しいレッスンを受け、努力しているメンバーの映像が映されている。
 AKB48を見ていると、今のアイドルはキラキラした完璧な女の子よりも、ひたむきに努力をする身近な女の子が支持されているのだと思う。ファンは、握手会や秋葉原の劇場に通うことで「会いに行けるアイドル」のAKB48に親近感を感じている。以前、「AKB48のどこに魅力を感じるか」というアンケート結果を見たことがあるが、顔のかわいさや、歌やダンスのパフォーマンスを抜かして、努力をしているからという回答が最も多かった。選抜総選挙においても、頑張っているメンバーを実際に支えて育てていきたいというファンの心理が表れている。
以上のことから、現在のアイドルとしてのAKB48は人々にとって身近な存在で、影で努力をしながらひとつひとつの公演を一生懸命行い、「頑張れば夢は叶う」と人々に希望を与える存在であるといえる。

12             AKB48は今最も注目されているアイドルグループです。昔からハロプロやジャニーズなどたくさんのアイドルグループがありますが、AKB48は他のアイドルグループとなにが違い、どういった点が魅力的なのでしょうか。
AKB48の1番の魅力であり、他のグループとの違いは、「会いに行けるアイドル」というコンセプトの下作られたということだと思います。アイドルというと、ファンに夢を与える存在であり、ブラウン管の向こうにいる遠い存在というイメージが強いですが、AKB48は秋葉原で毎日公演をやり、それも舞台と客席の距離がとても近いため、アイドルといっても遠い存在ではない、ということをファンに認識させようとしています。昔から足繁く劇場に通うファンは自分自身の「推しメン」(1番応援しているメンバー)の成長過程を目の当たりにすることもでき、これがたくさんの熱心な固定ファンを獲得している所以だと思います。
また、AKB48の一大イベントとなりつつあるもう一つの魅力は選抜総選挙です。これはファンによる人気投票でセンターに立つことのできるメンバーや、メデイア選抜としてテレビや雑誌に出ることのできるメンバーを決めるもので、2009年より毎年行われています。この選抜総選挙はファンに、自分の投票によって推しメンが活躍できると思わせる効果があります。またメンバーにとっても、「今まで選抜であったとしてもこれからもそうであるとは限らない」という緊張感や、「今選抜ではなくても努力次第で選抜になるチャンスがある」という向上心を持たせる効果があります。こういったことはインターネットが普及し、誰でも簡単に投票ができる今だからできることであり、「現代のアイドル」を象徴していることであるともいえます。
こういった今までのアイドルには見られなかった特徴がAKB48にはあり、それが話題を集めて人気を呼んでいます。しかしCDが売れない今の時代に何百万枚もの売り上げを記録し、オリコン1位を獲得している背景には、様々な特典をつけることで同じCDを何枚も買わせるAKB商法といわれるものがあり、批判の対象にもなっています。それでも汚い方法であるかもしれませんがこういった商法はその世界で生き残るための知恵であり、有効な方法であると思います。

13               AKB48は、今や日本を代表する「国民的アイドル」である。しかし、彼女たちは本当に「アイドル」なのだろうか。
アイドルとは、一般的に皆に知られるポップ歌手、その他芸能界のあらゆるジャンルで活躍する人気者を指すが、AKB48はその名前や曲、CD売り上げなどの経済効果こそ広く知られているものの、一人一人の顔と名前の認知度は未だ非常に低い。それでも現在のような人気までAKB48が上り詰めた背景として、プロデューサー秋元康の戦略が挙げられる。
AKB48はもともと、ドン・キホーテ秋葉原店での小さな劇場で「会いに行けるアイドル」というキャッチフレーズのもと、非常に親近感ある存在として誕生した。その後インディーズ時代などを経て現在の人気までに至るが、彼女たちの特徴といえば「総選挙」と呼ばれる人気投票である。CDの特典として封入されている投票権を求め、一人のファンが大量に購入することから「CD付き投票権」と揶揄されるなど批判は避けられないものとしてあるが、一般のファンが活躍自体にここまで携わることは今までにはなかった斬新な方法である。
かつてアイドルとして成功を収めた良い例として、松田聖子やおニャンコクラブなどの存在が挙げられるが、彼女たちは皆完成されたぶりっこさや自由さ、もしくは未熟なそれらそのものが愛されたのだと考えられる。対してAKB48は、その成長過程を見守り、時には自分たちがその成長の手助けになっていると意識出来ることが愛される理由の一つではないだろうか。
選挙による人気順でシングルCDリリースの参加メンバーを選ぶなど、ファンありきの活動はますます彼女たちを身近に感じさせ、「自分がいなければ」と、情がわく。言うなればAKB48はタレント養成事務所のようなグループであり、ファン一人一人がプロデューサーなのである。舞台の上で活躍するアイドル達をただ応援し、ただ憧れるだけの時代は終わった。多くの普通の女の子たちから自分のお気に入りを見つけ、自分の手でスターへと磨き上げていく、というAKB48のスタイルは新しいアイドルの在り方なのである。

14              今人気のアイドルグループAKB48。彼女たちは現代において、アイドルというものの市場における新しい在り方を提案したと考える。つまり旧来のアイドルはコンサートでの直視が限界であったわけだが、AKB48はコンセプトが”会いに行けるアイドル”であり、CDを買って握手会に行けば握手できることはもちろん、実際にあこがれの彼女たちと話せる。この身近さが人気の秘密なのではないか。しかし、旧来はむしろアイドル=遠い存在、雲の上の存在というようなものが魅力だったのではないだろうか。ではなぜ現在このような”身近なアイドル”が人気なのだろう。それは以前と今の若者に変化があるからではないだろうか。現代の若者はやたらつながりを求めているように思える。携帯が手放せないという人はたくさんいるし、mixiやtwitterのとようなSNSをまったく利用していないという人はほとんどいないといっていいのではないだろうか。そんな中、旧来のアイドルに比べて簡単に会いに行けて、ふれあえるアイドルは特別なつながりを感じられるわけで、当然需要は高いはずだ。
また、現代の若者はみんなと同じことをやりたがる。上記のつながりと少々かぶるところはあるが、誰かと一緒という共通点を見つけることで安心感を得る。その共通点をアイドルと見つけることができればその安心感はさらにでかいのではないだろうか。このように身近な”会いに行けるアイドル”としてのAKB48は、現代の若者の特徴をうまくつかみ、つながりや安心感を提供したというてんで大成功を収めたのだろう。AKB48の人気を深く考えるとこのように現代の若者の特徴が浮き彫りになる。

15              今回私が問いを立てたことは「AKB48と現代社会(メディアとの)の関連性」についてである。
彼女たちは「会いに行けるアイドル」としてプロデュースされ、今では日本を代表するアイドルとなった。
では今までのアイドル(かつての松田聖子やモーニング娘など)とはどう違っており、社会と関わっているのか考えてみたいと思う。先ほども述べたように彼女たちは「会いに行けるアイドル」である。このように身近さを感じ取れる特徴がいくつかある。一つ目に秋葉原の専用の劇場を持ち、ほぼ毎日講演を行っている。今までのアイドルはテレビなどの媒体を通して、またCDの音を通して、間接的に会うことが主とされていた。かつてのアイドルとは、「アイドル」以外の何者でもなく、メディアの中に住む自分とは遠い憧れの存在であったのである。しかし、従来のアイドルとファンとの距離感を破ったといってよいほど、彼女たちには「身近さ」が売りなのである。二つ目に制服姿というどこにでもあるファッションをも見ても彼女たちの身近さが感じ取れる。他のアイドルはアイドルらしいファッション(普段では着ることのないだろう派手なファッション、舞台用のような)を着用していたし、それがアイドルの在るべき姿だったような気がする。三つ目に総選挙によってメンバーが入れ替わることである。
これはファンのみならず、その他一般の人たちも自由に意見を言うことが出来、
その反応が選挙結果として返ってくるという今までにない身近さがある。
ではなぜ現代社会ではこのような「身近さ」という特徴を持ったAKB48が絶大な人気を得ているのだろうか。
今日、様々なメディアの普及、ネットの急速な進化によって誰でもどんな情報でもすばやく手に入れることが可能となった。
特にSNS(mixi,twitter,Facebookなど)の普及によって誰でもある人が発信した情報を共有することが可能となった。
またブログの登場で芸能人の私生活が垣間見ることが出来るようになったことも注目したい身近さのポイントである。
これらのSNS,ブログの存在の登場により、芸能人は身近な存在となり、
それと同時期に「会いに行けるアイドル」としてAKB48が誕生したのではないだろうか。
言いすぎであるかもしれないが現代メディアが生んだアイドルであるかも知れない。
また移り変わりの激しい時代である。ひとつひとつのブームが過ぎ去るのも、この情報社会の特徴の一つである。
そんな移り変わりにも負けていない要素としての一つに総選挙があるのではないだろうか。
ファンが飽きないように、常に新しいもの、斬新なものを作り出すための手段なのである。
しかし一歩離れて見てみると、残酷なアイドルのようにも感じられた。
# by kmr-sato | 2011-05-11 05:56

「現代のアイドルとしてのAKB48」(2)

6                   会いに行けるアイドル」というコンセプトの下、秋葉原の劇場から生み出された 48 人のアイドルたち。その後デビューしてから5年の月日で、劇場からトップアイドルへと上りつめてきた。それまでの道のりで、彼女たちは様々なイベントを催し、人々の関心を集めてきた。秋葉原の劇場でのライブに行けば、アイドルたちと触れ合え、 CD を購入すれば、アイドルたちとの握手券が付き、グループ内で順位をつけあうなど、アイドルに対する欲や、人気あってのアイドルなどということを透明化し、アイドルの深層を提示してくれ、メディアで注目される話題性を常に持ち続けた結果が、今あるのではないかと思う。
さらに、 AKB48には荒木経よしや、蜷川実花、篠山紀信などといった名高い写真家たちが手掛けた写真があるなど、より高い付加価値がつき、さらに広範囲なジャンルにも手を伸ばし、多くの人びとの関心をさらっていく。このように、彼女たちを人気者に仕立てた様々な要員があるが、私は「繋がり」という視点からAKB48を読み取っていきたいと思う。デビュー当初の売り文句、「会いに行けるアイドル」がやはり人々から注目を浴びる第一歩になったはずである。劇場に足を運べば、大きいとは言えないステージを、比較的至近距離で見ることができ、最高のパフォーマンスを見せてくれる。そして、終演後にはさっきまでステージに、立っていた彼女たちと、ハイタッチができたり、一緒に写真を撮ることができる。また、そのステージが毎日開催されているため、毎日だって顔を合わせることもできる。(毎日ステージに立つチームは違うが。)このような経験をした人々が一回きりで、この劇場を後にすることができるのか。この劇場に足を運んだ人々は、AKB48たちを身近な存在に感じることができ、そのように感じた人々のことを、応援したくなるのは当然のことである。ファンたちはAKB48との繋がりをこういうところで、経験し応援し続けているのではないかと思う。CDを購入すると握手券がついてくるというのも、劇場に行くよりも敷居が低いため、より多くの人々が彼女たちと会う機会を得ることができる。そしてまた、次回発売されるCDを手にとってしまうことだろう。
AKB48ニューシングル「Everyday、カチューシャ 」のPVは、これまで発売したきたシングルのPVのオマージュで作られている。このようなPVを見ると、これまでのPVを再び見返したくなり、AKB48との時間がさらに増えることになり、どんどん深入りしてしまうのではないか。こうして、PVが過去への繋がりを提示してくれる。その集積がこれからの、AKB48の道も繋いでいくのだろうと思う。

7           「会いに行ける」アイドル=等身大~憧れの女の子のストーリー     
        2006年のデビューより5年、秋葉原に専用劇場を有し、今や国民的アイドルと言われる「会いに行ける」アイドル、AKB48。なぜ、「手の届かない憧れの的」であったアイドルは今、こんなにも身近になったのか。それは、個々人がブログやtwitterなどを通じ、誰しもにひらかれたアイドルの日常を垣間見ることを可能としたことだけではない。AKB48の特徴と言えば、その大人数のメンバー構成、またそれゆえによる選抜(PVへの出演やメディアへの露出をかけたオーディション)、総選挙(CDを購入したファンによる人気投票ランキング)の存在である。メンバーは今までのアイドルグループ以上に個人個人のPRのため、そのキャラクターの確立を迫られる。キャラクターの確立については昨年の総選挙で見事一位を獲得した大島優子も「自分のキャラを見つけないとってずーっと考えて悩んでました」(Quick japan 48号 p52 太田出版)と語っているほど、メンバー自身も重視しなければいけない点である。また、この個人のキャラクターの確立が重視されている点はAKB48のPVにも反映されている。
AKB48のPVはドラマを描く。「会いたかった」では放課後、「大声ダイヤモンド」では文化祭、「言い訳Maybe」は部活、「涙サプライズ!」は休み時間など、多くは女子高生の生活を思わせる舞台設定で、そこには主人公や友人たちがいて、困難を乗り越え、彼女たちが成長していくストーリーが描かれる。どの舞台もだれもが高校時代に1度は経験し、またある時はあこがれてきた出来事である。
2009年から2010年にかけて軽音部に入部した女子高生の日常を描いたアニメ「けいおん!」がヒットしたが、第2期「けいおん!!」OPでも部活、ライブ、廊下、教室、講堂、校庭、階段などが描かれる。ヒットの要因は楽曲や楽器のみではなく、だれしも必ず経験し、だれしも憧れたようなキラキラの瞬間がうつし出されているからではないだろうか。AKB48のPVにも「けいおん!!」と共通した"キラキラの瞬間"が描かれている。
それではAKB48の「大声ダイヤモンド」のPVをみてみよう。するとどうやら学級委員のような役割の渡辺麻友、文化祭でAKB48をやりたかった松井珠里奈、中心になって練習をする小嶋陽菜、周囲から近寄り難い存在としてみられていた篠田麻理子、受験勉強が大事で練習に集中できない前田敦子、ダンス部のリーダー宮澤佐江、ダンスの始動に励む板野友美、秋元才加、高橋みなみ。
ストーリー仕立てにすることで大人数が舞台にあがっていても、登場人物(役)のキャラクターをみせることができる。わずかなコマ数であっても、クローズアップによって、まるで1つのクラスをみているようにバラエティ豊かな彼女たちを描くことができているのが特徴的だ。
更にここに挙げたメンバーの名前は総選挙や選抜で常に上位にいる(=メディアへの露出の多い)メンバーである。よって従来のアイドルグループのPVに見られるメンバー各々のポジション(誰がどの位置につこうがPVで描くテーマに大きな差は生まれない)よりも、AKB48のPVの配役を得ることはハードルの高いものであることが伺える。また選抜というシステムによってメディアへの露出が変化する点は彼女たちの努力や成長の成果を示す場である。
Youtubeなどのメディアが主導権を握る現代において、なかなか秋葉原まで行けない多くの人が同じようにPVを目にし、高校生の日常を演じる彼女たちにある者たちは興味を示し、あるときは共感し、ある時は憧れるのである。
なかなか触れることのできなかった存在から、共感を得ることや、成長していく姿を大々的に示していくことで、ファンの"応援したい"気持ちを刺激し、すぐ近くで応援できる、誰でも会いに行くことができるアイドル、AKB48が作り上げられているのである。

8                  AKB48はアイドルでありながらも、70年代80年代のアイドルや現代のアイドルよりもファンサービスがものすごく優れていると思います。ファンサービスはファンにとっても、アイドル自身にとっても必要なことですがこのことに関してAKB48はいろいろなファンへの催しを行っているようです。
 例えば、300回公演を観にきてくれたファンとドライブができたり、抽選で一緒にお花見にいけたり、、、、AKB48はファンとの交流をとても大切にしているような気がします。しかし、インターネットが流通した今日であるからネットで簡単にそのような応募ができたりするのかなあと感じました。松田聖子の時代に、ファンと一緒にドライブなんて言ったらありえないことです。そのありえないことを行動するAKB48と秋元康はすごいなあと感じました。
 歌も歌えてかわいくて踊りもできる、そんな人材が昔のアイドルとして存在していましたが、現代化していくことによってグラビアアイドル、声優アイドル、浜崎あゆみといった容姿がきれいで作詞作曲も手掛ける歌手など、現在はアイドルが細分化されてしまってきています。そのことによって昔のアイドルにはなかった部分が目立ちます。私の母がよく言うのですが、「昔のアイドル歌手はなんとなく歌っているだけでかわいく評価されていただけで、歌が特別上手なわけでもなかった。モーニング娘。やAKB48のほうがまだ上手」ということをよく言っています。松田聖子の昔のPVを見ると、とりあえずかわいい女の子らしい洋服をきて、それに相応するようなしぐさを演出しています。AKB48のヘビーローテーションの最初の部分で大島が一人ダンスをするような部分がありますが、かわいいとは私は思いませんでした。でももし松田聖子がこのような踊りを当時していたらきっとアイドルとは少しかけ離れた人材として存在していたような気もします。AKB48はかわいいを取り入れながらかっこいい演出をし、その間にあるギャップをファンに注目させている気もするなあと思います。

9                はじめにAKB48はアニソンを中心に歌う水樹奈々といったアキバ系アイドルとして目されているがここではアキバ系とは違う一般芸能人として論じる。何故ならプロデューサー秋元康が率いるAKB48のこれまでの記録をみるとどう考えてもアニメソング界ではなくJ=POP界を指標にした活動を行ってきたからである。
 AKB48は多数の人数によって編成されるアイドルユニットである。この多数の人数(五人以上)によるアイドルユニットの前身にはモーニング娘。がいる。ここではこのモーニング娘。をAKB48の比較対象にしていく。もっとも比較するのはそれぞれのユニットの方向性をつくるプロデューサーの在り方であるが。
 モーニング娘。はいわゆる2000年型アイドルであり当時の子供たち(特に女子)の憧れに代わる存在であった。モーニング娘。自らも当時の流行に沿ってヤンキーファッションをするなど若者を率先するファッションリーダーの一面を覗かせている。彼女たちはアイドルがいなかった時代に現れた正しく“アイドル〟だった。
 しかしモーニング娘。を“アイドル”へと導いたプロデューサーつんく♂は
アイドルという言葉を嫌い、あくまでプロの歌手、芸能人をプロデュースしているという見解を示した。彼にとって“アイドル”とは自分で自負するものでは決してなく、あくまで周りから賞賛して受ける称号だという意識があったからである。
 対して秋元康はもっと前時代の大型ユニットおニャン子クラブから小泉今日子の「なんてたってアイドル」という曲を発表するなど「アイドルはアイドル」とアイドル論を狙った企画を進んで行ってきた。勿論AKB48もこのアイドル論を基底に活動している。
 興味深いエピソードに以前おニャン子クラブで成功し、かつトップクラスで人気だったメンバーの高井麻巳子と結婚していた秋元康が先輩としてなのか
モーニング娘。をつくったつんく♂に「メンバーの誰かと結婚しろ」とアドバイスしたというものがある。ちなみにつんく♂は自分がプロデュースしたユニットメンバーとは結婚していない。
 秋元康にとって女性歌手、“アイドル”は自分を含めた男性にとって魅力的な者をがなって始めて自分がプロデュースして映えるという考えがあったのだろう。だがつんく♂は全く別に自分にとって魅力的に見える美人をプロデュースするのは至難の業とした。理由に異性として見る目を持ってしまってはプロデューサーとして務まらないという考えがあったからである。
つんく♂はインディース時代を通してプロの音楽家として生きてきたという生粋のプロ意識が根強くあり、モーニング娘。に対してきっちりプロの歌手として扱うようにしていたのが窺いしれる。
プロの歌手以前に“アイドル”として売れる路線を追求してきた秋元康と
音楽家としてプロの歌手をプロデュースすることを追求したつんく♂とでは全く相容れないものがある。
言い換えればモーニング娘。が健康的な芸能人として歌手王道を追求したとするならばAKB48は(極端に言えば少女の性を売り物にする)アイドルの商品化を狙った王道とは言い難い路線を追求しているのだ。
だからといってAKB48が邪道かというとまた違うと思われる。AKB48はもともとの「会いにいけるアイドル」というコンセプトの名の下外神田に劇場を設けてメジャー進出してもなおチームごとに日替わりでほぼ毎日公演を行っている。数の多さでもそうなのだがこうした活動は画期的といえる。AKB48は今の時代に生まれた新しいアイドルの形を示しているのではなかろうか。
 蛇足だが個人の感情を述べてしまうとあまりAKB48を歓迎したくない。
全然唄が歌詞が心に響かないからだ。あからさまな商法戦略のAKB48が今のJ=POP界を支配していると思うとげんなりするしJ=POPの廃れを感じる。
そういう考えが浸透しているのか松本隆、つんく♂などかつてJ=POPを先導してきた音楽家がアニメソングを手掛けたりしている。(「マクロスF」星間飛行、「イナズマイレブン」つながりーよ)社会現象にまでなった「けいおん!」などいまや、アニメソングはCDリリースとともによくネットにデータが流れるにも関わらず、CDの売り上げを伸ばしオリコンの首位に立ったりし、正当な評価を得ている。彼らはJ=POPという音楽のメジャーなはずの世界から、アニメソングというまた別のカテゴリー、世界に価値、可能性を見出しているのかもしれない。

10                AKB48のメンバーには公演のときや総選挙に使う、キャッチコピーがあります。わかりやすい例を挙げると、チームBに所属する「らぶたん」こと「多田愛佳」のツンデレがあります。ポスターは、総選挙のときのポスターです。
  
他にもAKB48からの派生ユニットである「渡り廊下走り隊」は、グループそのものが妹系といわれています。彼女達の曲「ギュッ」のPVの冒頭には、まゆゆの「せーんぱい!」という声からはじまり、いかにも年下の守ってあげたいような妹系の女の子達という感じがします。(http://www.youtube.com/watch?v=N9L61kHJpE4)
そして、そのPVに登場する風船のような人形は見る側の視点であり、キャラとしてのアイドルが都合のよい存在であることがわかります。

AKB48は公演ではチームごとに活動していて、そのなかで特にキャラが強く表れているのは、チームBの公演だと思いました。例えば、「チームB推し」という歌では、メンバーがひとりずつ前に出て行って、ファンにアピールをします。
(http://www.youtube.com/watch?v=pq5o6WBcYd4)
歌詞には「大勢いると迷うでしょ、誰かひとりを応援して」という箇所があったり、「パフォーマンスが目をひいたら、推し変してもかまいません」という、過剰なまでの自己(キャラ)アピールがあります。

そんな中、あっちゃんこと前田敦子には、目立ったキャッチコピーのようなものが見つかりません。私は、そんな彼女は「キャラがないことを演じている」と思います。
前田敦子の所属する、チームAには「胡桃とダイアローグ」という歌があります。
(http://www.youtube.com/watch?v=4sUUyIcdmKc)
この歌は表面上では、男女の秘密の恋愛を描いているのですが、私には、「キャラを演じている良い子の私」と「そうではない本当の私」を表現しているように感じました。「胡桃を割ったら聴こえたわ 閉じ込めたその声が 真実知ったらもう元に戻れなくなるでしょう?」という歌詞は、本当の自分を見ないふりしている少女の心境だと思いました。
メンバーが持っている本は、演じるための教科書であり、前田敦子が持っている真っ赤なガラスのハートは、彼女達の探している「本当の私」なのかもしれないと思いました。しかし、最後に前田敦子が赤いハートを落として割ったことは、また見る側の要求に応えるために、アイドルとして演じる自分に戻っていくことを表しているように思いました。
# by kmr-sato | 2011-05-11 05:55

「現代のアイドルとしてのAKB48」(1)

1                        偶像というのがアイドルの言葉の由来らしい。そういう意味で言うならばAKBはアイドルではないのだろう。会いに行けない唯一無二の存在がアイドルだというならば、徹底した「会いに行けるアイドル」は矛盾するあり得ない存在だ。しかし「会いに行ける」ことが彼女たちをアイドルたらしめるのだから不思議だ。AKBの握手会に何回も行ったり、総選挙のために何枚もCDを買うというAKBオタクの友達にその魅力について聞いてみたところ「普通の子たちが努力している姿が見られること」、「育てる気持ち」だという返事が返ってきた。ふつうの青春をすべて捨てて必死に「アイドルをしている」姿を見ると応援したくなるらしい。また晴れて選抜に選ばれたメンバーがどんどんきれいになっていく姿を見ると、もっと応援したい、わたしがこの子を引っ張ってあげたい、育てたいと思うそうだ。AKBの子たちはものすごくかわいいわけでも、ものすごく歌や踊りがうまいわけでもない。しかしだからこそ伸びしろがあるのだろう。舞台の上の唯一無二のアイドルは触れなかった。「見られる」プロフェッショナルだった。しかしAKBはどうだろうか。頻繁に行われる握手会・客との距離が近い劇場・応援がそのまま反映されるシステム。触れる・会いに行ける・育てることができるアイドルは「見られる」プロフェッショナルではない。「見せる」存在でもない。彼女たちは自らのメッセージを伝えるパフォーマンスはしない。計算された素人さからくるぎこちない「見られる」こと(計算されたぎこちなさは優美ではないが笑いに近く、これも親しみやすさを生むことに繋がるのだろう)。また会えるということからAKBから客への「見る」視線が生まれたのだとわたしは思う。昔のアイドルにも「見る」視線はあったのかもしれないが、とても強い「見る」が生まれたのだと。「育てたい」「覚えてもらいたい」そう思うのはアイドルを偶像でなく自分と同じ「人間」だと、「見る」目を持つと意識しているからだ。AKBもその期待に応える。応えないといけないシステムもそこにはある。整ったk-popアイドルやperfumeからは「見せる」を感じる。AKBからは「見る」を感じる。どちらも形は違えどもアイドルの新しい形なのだろうと思った。

2                        本来アイドルは憧れの対象、現実とは異なる完璧な存在とされてきた。しかし、近年多様化してきたアイドル像は、それと対極に位置する身近なアイドルを創る傾向に現在ある。その傾向を象徴するのが「会いに行けるアイドル」としてのAKB48の存在である。彼女達のシングル作品を通して現代において彼女達がどう存在しているかを考える。
まず彼女達の作品のテーマを考える。テーマは多岐に渡り『桜の花びらたち』に代表される彼女達の主な衣装である制服からも連想しやすい卒業ソング、また『RIVER』に代表される人生への応援歌、『涙サプライズ!』に代表される友情をテーマにした楽曲、そして『会いたかった』に代表される片想いの頃のかわいらしさや純粋さを歌う恋愛ソングといったように“いい子、純粋な子”を連想させる楽曲は数多く存在する。しかしそれと同時に『制服が邪魔をする』や『ヘビーローテーション』のPVにも見られるように、女性としての一面や恋愛におけるスリルなど“危なさ”も彼女達の楽曲には存在する。彼女達には「社会に求められるかわいくていい子=女子の願望」を演じると同時に、「背伸びして大人を演じる幼い子=ファンの欲求」を演じるという矛盾が存在しているのである。
現代は周りの目を気にすると共に各々が自己を見つめ、自分とは何者かを問うことが非常に重要視される時代である。人間の内面はほとんどの場合矛盾を抱えるが、他人の目を気にするとそれは隠すべきものと扱われる。「女子の現実」と異なる「女子の願望」、また見る側としての「男性ファンの欲求」や注目されることを願う見られる側としての「女性ファンの欲求」がアイドルを応援する、もしくは楽曲を真似することで満たされているのではないだろうか。つまり彼女達は「人間の願望・欲求に忠実なアイドル」であると考える。
今後、NMB48やSKE48といった彼女達の妹分の出現も手伝って、この身近で人間の矛盾を含んだアイドルはしばらく現代社会を反映し続けることだろう。

3                       私が「アイドルとはなにか」というテーマで現代のアイドルを考える時に、比較対象としてまず頭に浮かぶのは、現代と正反対の70年代のアイドルである。例えばキャンディーズや山口百恵・南沙織などは、純粋さ、無垢さを前面に押し出していたと解釈する。その中にも女性としてのクールさ、ちょっとした危険さ、大人への反骨精神というものも感じる。当時、実際にはいないけれど「こんな子がいたらいいのにな」という願望を含む【偶像】 を、アイドルが体現する必要があったと思う。「テレビの中でしか会えない。」ことをむしろ売りにしていた時代であったし、言動や行動も偶像化しており、インタビューの時だけ答えさせられているような感じだ。彼女たちは「手の届かない人」「雲の上の存在」であり、そんな彼女たちにファンは、一人のアイドルに対して熱烈 な愛情を持って、下から見上げる感じであった。垢ぬけた今時のメイク、舞台で映えるきらきらの派手な衣装など、女性としての美しさという点でも、ファンにとっての【絶対的な存在】であったと感じる。
一方で現代のアイドルの象徴AKB48は、もはやアイドルが世間や人々にとっての【絶対的存在ではない】ということを体現している。テレビ番組で普通の会話をして、はしゃいだり騒いだり、汚れたり、こういった全てが「AKB48」としての芸となり、「こんな子いるいる」とファンに思わせ、アイドルをより近くに感じさせる。
また手の届く場所にいる人である以上に、自らの手でチャンスをつかんだ勝ち組の人たちであることも、より近くに感じられる。総選挙といった、競わせていることをあえて見せるパフォーマンスによって、ファンはますます「自分たちの一票によって、彼女たちがどこで歌うかが決まる」という充実感を味わう。「自分 たちのおかげで」の意味も含む、むしろちょっと上から目線でアイドルを眺めることができる。
「あなたが大切です。」とブログやテレビを通して毎日のように言われる中で、自分(たち)を必要としてくれていると自負し、よりリアリティを持って、恋人が居るような感覚になれる。いかにもアイドルらしく振る舞うという不自然さが70年代にはあった一方で、今は素顔を出している感じで、話す時も歌う時も無理な感じはしないため、=若者の【偶像ではない】。超絶な美人やとてつもないオーラを出す人が一人もいないことが人気を呼んだのだと思う。「いもっぽくない」「かわいいけど突出していない」「どこの学校にも、一人・二人は居るかわ いい子」として存在する彼女たちに、【憧れる】より【惚れる】感覚なのではないか。
最後に、70年代は【楽曲】が、そのアイドルを象徴する圧倒的な媒体であり、歌手活動が主であった一方で、現代のアイドルにおいては必ずしもそうではないことに興味を持った。歌に対して特別な執着や憧れは必要なく、日常生活の延長・AKBのパフォーマンスの一つの在り方として歌があると感じる。最近は昔と比べてダンスが多く取り入れられるようになり、歌のみでなく、歌+ダンス、さらに+プロモーションビデオ(それも一つの物語としての完成度が高い)、すべて揃って初めて「AKB48のパフォーマンスとして」成立している。たくさんのユニットを作っているのも、あくまで歌メイン、もしくは歌という芸で世の中に挑戦してやろう・打ち出してやろうというより、元あるそのメンバーの違う一面や、他メンバーと組む事で生まれる新たな【人】としての光り方や魅力を見せるための戦略な気がする 。また、ファン自身もそれを望んでおり、「もっと近くに見たい、違う一面を見てみたい、感じたい」というファンの欲望を満たすためのパフォーマンスであると思う。つまり音楽そのものの力は、70年代の時と比べて格段に弱まっている。そうすると、アイドル=アイドル歌手という私のイメージは崩れ、また「自分たちが彼女たちを支え、動かしている」とまでファンに感じさせる現代のアイドルは、なぜアイドルである必要があるのかとも疑問に感じる。

4                         AKBが「現代のアイドル」と言われる最大の特徴は、「表面的である」ということではないだろうか。「表面的」であることが良い悪いということではなく、現代社会やメディアなしでは生まれなかったアイドルであり、なぜ「表面的」といえるのか、という部分について論じていきたい。
 現代のアイドルの流れを作ったアイドルとしては、先にPerfumeが挙げられる。テクノ系音楽グループと称するPerfumeのダンスは、人間的な動きを極力避けたものである。初音ミクに歌わせ、踊らせることが可能であるものとも言える。むしろ初音ミクが担っていた部分を実際の人間が行なったことで、聴衆は驚きを感じるという「2次元から3次元への転換」があったと考えられる。Perfumeは、あーちゃん・のっち・かしゆかの三人で構成されているが、トーク番組出演などでそれぞれの個性も人気の要因であるとしても、Perfumeのパフォーマンスはダンスや歌の技術力さえあれば、誰でも再現可能であるかもしれない。また、再現可能なアイドルとして、相対性理論のやくしまるえつこも挙げられる。マスメディアにはあまり容姿を見せないため、ウィスパーボイスであればもし「やくしまるえつこ」ではない他の人物にボーカルがすり替っても、告知されない場合気づかず聴き続けるだろう。
では、AKBはどこが再現可能的で、表面的であるといえるのか。AKBはPerfumeや相対性理論と比較すると、「会いに行けるアイドル」であったこと(現在はもうそのレベルではなくなっているが)や、「~推し」などそれぞれ固定ファンがいたりと、AKBのメンバーひとりひとりを簡単に他人が「再現可能」とは言い切れない。しかし、「総選挙」という最下位まで全員を順位付けて発表したり、口パクであること点からも、メンバーひとりひとりの個性や存在を大切にし、魅力としているとは考えにくい。今までメンバー全員に順位付けしていたアイドルグループはなかっただろう。それだけAKBの「中身」は柔軟に変化していくものであり、変化していくことを拒まない、むしろ変わることを売りにし、流行を劣化させない策略をプロデューサー秋元康氏は考えているのではないか。その策略を受け、聴き手側も柔軟になっていると考える。「~推し」というのは流動的に変化してもよく、「◯◯も応援しようかな」など気軽に他のメンバーも応援できたりする。また、人数も多いためTV出演にはセンターポジションの前田敦子ですら、毎回いるわけではない。しかし、そこまで聴き手はセンターの存在がなくても違和感を感じたり落胆するわけでもない。
AKBが人気になったことで、「2.5次元アイドル」と呼ばれるようなアイドルも増加してきたと考える。最近2.5次元アイドルという言葉は雑誌でも大きく取り上げられており、2次元のアニメのキャラをコスプレする「3次元から2次元タイプ」と、アニメやゲームの声優が実際にアイドルとして姿を現す「2次元から3次元タイプ」の2種類が存在する。Ustreamの浸透やディアステージなどの空間の人気で、「スター」にならなくとも簡単にメディアに露出したり、ネットと現実の場を行き来することが容易になった。このようなメディアの発展からも、AKBは2次元と3次元の相互性から人気を博したアイドルであり、その文化を定着させたアイドルであると考えられる。
以上のことからAKB現代のアイドルとして「表面的」な部分をとことん追求し、そこに魅力を生み出すことができたアイドルの代表的な成功例である、と考える。

5  AKB48とファンとの距離感は、TGCのモデルと観客の女の子たちの距離と似ている。TGCの魅力は“モデルたちが着る洋服を買える”ということにある。女の子が手に届くものに魅力を感じるようにAKBに魅力を感じるファンは“お金を払えば会える”という手軽さに魅力を感じているのだ。女の子達とAKBファンの決定的な違いは自分のものにならないことである。そのファンの所有の欲求を商品としたのが『アイドルと恋したらAKB1/48』と『AKB5400sec/AKB600sec』である。私は二つの商品のコンセプトに着目する。

『アイドルと恋したら AKB1/48』(2010.12.23)
AKB48を容赦なくフッていく、究極の恋愛妄想ゲーム
本作はAKBの48人全員が「アナタのことを大好き」という状況でゲームが始まります。
ただし、あなたが選ぶことが出来るメンバーは48人の中からたった一人。
次々とアプローチをしてくる48人のアイドルを容赦なく振り、ただ一人の真の推しメンを選ぶことができますか・・・?
サイト:http://psp-akb48.channel.or.jp/
購入者コメント:http://jin115.com/archives/51741638.html
http://review.rakuten.co.jp/item/1/213310_13934122/1.1/

『AKB5400sec』『AKB600sec』
1日600秒…AKB48を独り占め!アイドルの1日を克明に記録する番組。
600秒じゃ物足りな~い!!というあなたには…
なんとテレビの9倍!5400秒のロケ素材をmicroSDに収録!
携帯でいつでもAKBに会えちゃうんです!
動画:http://ameblo.jp/exileandmakida/theme-10026194391.html
サイト:http://www.ntv.co.jp/akb600/

『アイドルと恋したら AKB1/48』はメンバーの声や動画、写真で出来ている。このゲームの購入者のコメントを見ていると、本気で自分が誰を選ぶか悩み、振ってしまったメンバーに対して心を痛めているコメントが多い。ゲームの中でのキャラクターではあり、国民的アイドルでもあるアイドルがファン一人に振られたというより、AKBにとってたった一人の自分に振られたという妄想を抱いているのだ。
『AKB5400sec』では“覗く”というフレーズが繰り返し使われる。アイドルとしてのメンバーではなく普段の女の子としてのメンバーが映し出される。一例として渡辺麻友を取り上げる。前半は延々とアニメイトで商品を手に取り「かわいい」としきりに言ったり、商品を探して挙動不審になったり高まる様子が映されていた。(買い物をするが高いものは買わない)カフェでイラストを描いたり、化粧を直す姿は普通の高校生であり、過剰な振る舞いはない。途中でインタビューがあるものの買い物中のまゆゆに対し、カメラマンは話しかけない。アイドルがあたかも仕事としてではなくプライベートで買い物をしている(デートしている)という錯覚を抱く仕掛けであると感じた。
2つの共通点はAKBをより身近なものに感じること・持ち運びの出来る簡単なメディアを介したゲームである点、AKBを自分のものにしたい、彼女にしたいというファンには所有の欲求だ。“会いに行けるアイドル”にとってその他大勢のファンとしての自分ではなく、女の子としてのAKBにとってたった一人の人になるということを求めているのだ。
# by kmr-sato | 2011-05-11 05:54

ほうほう堂は見られず

5/7のほうほう堂公演「ほうほう堂@留守番」は、雨で順延となり、ぼくは土曜日と日曜日に帰省することにしていたので、見られず、残念。さらに、岡本太郎展も見るのをやめて、一本に絞ることに。練馬区立美術館の小林耕平とcore of bellsのパフォーマンス。
artscapeのプロビューではこんなこと書いた。

「パフォーマンス」なるものが「約束の遂行」を意味するとすれば、彼らのパフォーマンスは、その「約束」が遂行不可能なほど過大なものなので、見ていていらいらさせられる。パフォーマンスの間は「失敗」の状態を延々見せられている気にさえなる。けれども、その失敗が予想される課題の遂行は遂行そのものの姿を如実にあらわす。ぼくは、それが好きで、彼らのパフォーマンスを見ることがやめられない。なによりも「遂行とはなにか」をあれだけむき出し状態で人前で見せる勇気を買いたい。(会場にいた観客のみなさん、息子がうるさくてすいませんでした。)

その後、練馬から千葉・東金へ。GWにもかかわらず、道は空いていた。

田舎は、家の裏に田んぼがあり、そこではカエルの声がにぎやかだ。聞けば、必ず、バリ島のことを思い出す。空気が「すーっ」としている。もう東京暮らしの方が長くなってきているのだけれど、もともとぼくはこの空気のなかで成長したのだ。朝と夕方に散歩する。地元のあたりは、地価が下がっていて一軒家が買いやすくなっている、大きな家も多い。魚が旨く、米どころで、都心に住むよりもリッチなのではないかと思ってしまう。

昨日は、早朝にジョグをして(40代で最初の!)、午後、スガハラ工芸硝子に立ち寄った。地元で自慢の硝子製品。とてもセンスが良くて、青山に販売店を出してもいる。併設されているカフェでは、となりの自動車教習所の模様を眺めながら食事ができる。
# by kmr-sato | 2011-05-09 09:00


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