「即興二番」+ベクトルズ

snacに詳細がアップされました。

2日通し券もあります。早めにご予約されることをおすすめします。(席数がきわめて少ないのです)

いうまでもなく、ダンス界における今年の最重要イベントのひとつです。ベクトルズも準備万全にして臨む予定。

後日、室伏鴻をめぐるエッセイを毎日連載するつもりです。


「室伏鴻の考えるダンス」とは何か!
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# by kmr-sato | 2011-05-14 08:21

室伏鴻待望の日本公演!

室伏鴻が待望の日本公演を行います!

6/3+6/4場所はsnacにて。

タイトルは、

「室伏鴻の「即興二番」+ベクトルズ」

です。

いままで室伏鴻のパフォーマンスを見たことのないかた、何度も見ているかた、お見逃しなく!

そして

「+ベクトルズ」

です。

なにをするかは、追って告知いたします。
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# by kmr-sato | 2011-05-12 20:11

「現代のアイドルとしてのAKB48」

昨日は、上記のタイトルのレポートを一週間で書いてもらって、それを素材にゼミを行った。卒論を12月まで(三年生は来年の12月まで)に書くために、ゼミでは「問いを立てる」「分析をする」「比較をする」「文献を調べる」というテーマで7月末まで進んでゆく(いまは「問いを立てる」。卒論で言えば、「序」を書く作業にあたる)。35名ほどいるゼミ生は、興味関心が多種多様で、共通の課題を出すことがとても難しいのだけれど、これならば全員書けるだろう、と思ったのがこの課題だった。つたない文章が多いのも事実ですが、ちょっと面白い!ぼくとゼミ生だけが読むのではもったいない!と思ったので、学生たちに許可を得て、名前なしの状態で、ここに掲載します。(29本。掲載順は、優劣を反映したものではありません)

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# by kmr-sato | 2011-05-11 06:05

「現代のアイドルとしてのAKB48」(6)

26 現在メンバーがファッション誌やイベントに登場したりブランドのイメージキャラクターに選ばれたりと、男性だけではなく女性へ向けた活動が活発化している。恋愛ゲーム『AKB1/48アイドルと恋したら…』が発売された際、通販サイトの楽天市場が調査したところ購買者の約2割が女性であった。YouTubeではダンスをコピーした映像をアップロードする女性も多く、同性からの支持や関心が高まっている事がわかる。この事からレポートを書くにあたって「女性アイドルにおける同性ファンの心理とは何か」という部分に着目した。
 現在、音楽を聞く手段として携帯電話の着うたがある。日本レコード協会が09年に行ったユーザー調査によるとその利用率は女性が圧倒的に高く、幅広い年齢層に利用されている。昨年の着うたランキングでAKB48の楽曲は100位中25位が最高位で、上位は女性アーティスト等が占めている。この事から女性たちにとって、同性のアイドルにおいては楽曲以外に求める物が多くあるのではないかと考えた。
 まず、ファッション等の見た目が与える影響がある。女性ファッション誌でコーディネートを紹介したり、着用した衣装の柄が流行したり、容姿の面で与える影響は大きい。ダンスにおいては可愛らしく、覚え易いという点でコピーする人が多いのではないか。しかしこの見た目以上の精神的な面での理由があると考えた。
 常に多くの比較対象がいる、女性だけの集団の中でメンバーにとっては自分の個性をいかに発揮し、役割を見極めるのかが重要となる。この行為は私たちの普段の生活と重ねる事ができる。私たちも所属するコミュニティの中で同様の行為を無意識にしているのだ。「集団の中の1個人」として共感し、自分と近い役割、または憧れとなるような存在を見つける事もできる。メンバー達が同性だけの集団の中で競い合いながら成長していく姿を自分に重ねられる部分に、女性から支持の理由があると思う。
 アイドルが一人の女性としてどのように成長し、集団の中での役割を果たしていくのか。精神的な面でメンバーを身近に感じ、その中に自分自身を見つけようとする事が同性のアイドルに対する女性ファンとしての心理であり、支持の理由なのだと考えた。

27                 今や国民的アイドルとも言われているAKB48。どうして今こんなにも人気があるのか。私はその理由として二獣類のファンがいることが挙げられると思う。

1,地下アイドルのAKB48
 AKB48に関して歌やダンスのプロ集団を目指しているのではなく、可能性を集めて成長する過程を見せているというファンの意見が存在する。これはメディアを通して「理想的な女の子」をファンに見せていた従来のアイドルとは異なり、その前の状態、つまり本来であればメディアに出す以前のアイドルの状態をAKB48は今現在メディアを通して私たちに見せているということである。 アイドルオタク、特に地下アイドルと呼ばれる劇場公演型のアイドルのファンたちはまだ「未完成な女の子」を応援し、自分たちの応援によって大きくなって行くことに喜びを感じる。アイドルとして「成功」したらそのファンをやめて新人アイドルのファンになる、という人もいるくらいだ。昔からAKB48を支えてきたのはやはりこのようなアイドルオタクたちだったと言えるだろう。

2,『理想的な女の子像』の消失
 では、「アイドルオタクではないAKB48のファン」とはどのような人々なのか。まず、従来のアイドルとは、「理想の女性像」を提供する存在だったといえるだろう。それは、控えめで男性を立てるといった「大和撫子」のような像だったのではないかと思われる。しかし近年ではもはやこの「大和撫子」を見ることはほとんどない。それどころか、「のだめ」や「ホタルノヒカリ」のようにだらしのない女性像がメディアに載って認知され、またそれに共感する女性まで出てきてしまっている。これは女性の社会進出に伴って、「男性と結婚して家庭を守ることが女性の幸せ」という価値観がもはや古い考えになってしまったせいではないかと思う。男性に養ってもらわずとも生活できる女性が増え、もはや男性の理想とする女性像を演じる必要がなくなってしまったのである。化けの皮がはがれた女性たちを見て「大和撫子」を知る男性たちは批判もしただろうが、世代が変わりそんな女性を見て育った世代はもはやそれが「普通」になってしまい、現実的になり、「理想の女の子」は自分の世界にはいないことを悟ってしまったのではないだろうか。
 また、「会いに行けるアイドル」がコンセプトのAKB48は「ファンとの近さ」を売りにしている。これは劇場に行けば会えるという物理的な近さの他に、「クラスで5~10番目に可愛い女の子」を集めたというAKB48が従来の「高嶺の花」のような存在だったアイドルと比べて親近感もてるという心理的な近さも含んでいる。つまり、「高嶺の花を本気で応援してるのではなく身近な女の子について可愛いとコメントする」というような気軽さを持ってAKB48のファンを名乗ることができるのである。私は、AKB48のファンの多くはこのようなライト層ではないかと思っている。

3,まとめ
 これらのことから、AKB48は「成長過程を見せる」ことで従来のアイドルオタクを、また「気軽に」ファンにすることで「理想を信じない」年代から人気を得ることに成功している。ゆえに、AKB48が今後も人気を継続していくためには、後者は「気軽に」他のコンテンツへ興味を移してしまうライト層、もう一歩踏み込んだ「ファン」にすることが必要である。しかし、彼女たちが成長しきり、本当の「アイドル」になる日はくるのだろうか。

28              AKB48とは「競争と自虐から生まれる“リアル”なキャラクター工場」なのではないだろうか。
彼女たちの活動に付きまとうのは “競争”だ。選抜総選挙や派生ユニットへの参加など、ファンからの人気や運営側の期待値が目に見え、常に競い合う環境にいるためだ。
しかしそこには、もう一つの側面“自虐”が隠れている。例として、メンバー総出演のドラマ『マジすか学園2』第2話での台詞が挙げられる。場面は、渡辺麻友扮する“ネズミ”と、4人のアンダーガールズ(主にシングル曲選抜から漏れたメンバーで構成される、カップリング曲を歌うためのユニット)からなる“チームアンダー”の対決。あっさり倒されうずくまるチームアンダーに、ネズミは「そんなんじゃ、いつまで経ってもアンダー止まり。他人の背中しか見えねぇんだよ!」と言い放つ。昨年の総選挙5位の渡辺とチームアンダーの4人は同期だが、順位やメディアでの露出度は渡辺が4人を見下ろす形になる。物語とはいえ、シビアな現状を演じている彼女たちに自虐性を感じずにはいられない。また、このドラマの企画・原作は秋元康であることから、こういった場面を設定する制作側にも自虐性を見て取れる。他の番組でも様々な“自虐”を見ることができるが、それが結果として個人のキャラクター(役割 ex.ヘタレ、スべるなど)を明確にしている。つまりAKB48は、競い合わなければならない状況の中で、あえて自分を貶める“自虐”ネタを用い、各々が唯一のキャラクターを作り上げようとしているのだ。何故なら、そのキャラクターこそが生きる術となり、“競争”に勝つ武器となるからだ。
競争社会を悩みながらも進み、かつさらけ出した姿は「完成された製品としてのアイドル」像を保とうとしていた時代に比べてより身近に、より現実的に「リアルな存在としてのアイドル」を感じさせてくれる。だが同時に“自虐”を推し進め、キャラクターをピンポイント化することは “リアル”をどんどん一面的にし、リアルを見る(見せる)機会を奪う危険性をはらんでいる。こうした危険は身の回りにも潜んでいるように思えてならない。そういう点ではアイドルも一般人もあまり変わらないのかもしれない。

29                 素人っぽさをうりにして居るAKB。これは人気になるべくして人気になったのではないかと私は考える。
現代はとかくつながりを求める時代である。いや、もしかしたら現代だけではなく昔からそうなのかもしれないが、ここでは現代に限って考える事にする。
私はアンダーグラウンドの世界と現代のアイドルとしてのAKBは共通点が多いにあると考えている。それは「つながり」という点に於いて最もよく考える事が出来る。
アンダーグラウンド(以下アングラと略させていただく)の世界は、いつも「つながり」を求めてきた。60年代ではロックンロールを通した飲み屋にたまりつながりを求め、70年代で言えばドラッグやヒッピー系と言った服装でアングラ系の若者は仲間意識を通してつながり、80年代~90年代になればSMやハプニングといったものを通じて奇抜な恰好でクラブに集まり、昨今でもフェティッシュやアニメ等の趣味を持った者が奇抜な服を着て同じ趣味を持った仲間と繋がっている。
つまり、現代のアングラは素人のつながりを求めているのである。
AKBはもちろんプロのアイドルではあるが、素人っぽさ、そして「会いに行けるアイドル」として劇場でほぼ毎日公演をしている。しかも舞台はライブハウスや小さなクラブの様であり、観客との距離が非常に近く、また特別過ぎる、大規模な演出がない。
つまりAKB全体としては、プロの様に特別な時に、特別な感覚でしか会えないのではなく、AKBというショーガールがレギュラーパフォーマーとしているお店にいるという感覚に近いのではないか。
劇場にいくファンは、ファン同士でつながり、また好きなパフォーマーを近くでみる事ができる。それはクラブに行く客と似た感覚なのではないかと私は考える。
また、素人っぽさというのも現代のアイドルとしては重要である。
AKBの衣装は基本的に制服や私服(水着)をモチーフにしている。これが素人っぽさを出す上で大きいと私は考える。
一斉を風靡し、まだまだ根強い人気を誇るハロープロジェクト(以下ハロプロ)は、間違いなくプロのアイドルである。先程述べた様なAKBの劇場の様に気軽に会いに行けないという事も会ったが、彼女達がプロなのはやはり衣装にあると思う。
ハロプロは、曲のテーマに合わせて衣装を変えている。例えばエスニックな曲調ならばエスニックな衣装、夏の歌ならば船員、歌詞にジーンズと入ればデニム生地を使うなど、徹底している。
パフォーマンスをする人、プロのパフォーマンスをみたい人の常識として世界観を徹底して固定し、引き込むというものがある。つまり、彼女達はパフォーマーとして、非日常の中で完璧に生きている。
非日常のものとは勿論つながることは不可能であり、またお互いに大多数はそれを望んではいない。
しかしAKBはどんな曲でも制服や私服(水着)がモチーフの衣装であり、世界観を徹底することはない。これが観客にもパフォーマーにも一部日常の感覚を感じさせる事ができるのである。つまり、学芸会の様な感覚になるのではないか。
学芸会は「内輪のもの」である。つまり、出演者と観客は繋がっていて、観客同士も繋がっている事がある。
出演者と繋がっていれば観客はなんだかほほえましい感覚になり、パフォーマンスがイマイチでも笑ってその努力を認めてしまう。
また、観客同士がつながることで「内輪ネタ」で楽しむ事ができる。
つまり、AKBのファンはパフォーマンスを求めているのではなく、内輪の用語が沢山あったりする事から、つながりを求めているのではないかと私は考える。
そしてAKBは現代のアイドルとしてパフォーマンスというよりもつながりを提供しているのではないだろうか。
つながりはアングラの世界で重要なものであり、また人がアングラの世界の「住人」となる大きな要因である。
AKBのファンはもしかしたらアングラの世界にはまる可能性が大きいのかもしれない。また、AKBがもしメジャーなものでなくなったとしてもアングラ文化として進化し得る可能性は十分にあると私は考えている。

参考文献:下関マグロ著 東京アンダーグラウンドパーティ 二見書房 2006年

30 今回は、AKB48における「推し」の存在について述べてみようと思う。
「推し」とは、ファンの中で使われる専門用語で、自分がどのメンバーを一番に応援しているかを表すときに使用される。「推し」は一般的に一人で、二番目に応援しているメンバーを「二推し」と表現することもある。
なぜ「推し」という表現が存在するのであろうか。何も応援しているメンバーを一人に絞ることはないし、「推し」という言葉により周囲に告知する必要も本来はないはずだ。
私はこれを、人間の二つの意識が生み出した言葉なのではないかと考えている。
一つは、日本人特有の集団心理だ。孤立した存在であることを嫌う日本人独特のもので、自分がどの集団に属しているのかを確認したがる。自分がAKB48の中の「あっちゃん推し」という集団であることを示すことにより、自分自身が一人ではない、何らかの集団に属している存在であるということを確認する意識が 働いているのだと私は考えている。
二つ目は、集団の中に埋もれたくないという自己顕示欲の現われではないかと思う。「推し」や「担当」という言葉が使用される対象のアイドルは、ファンのコミュニティが比較的大人数であることが多い。そのため、自身の存在というものをなかなかアピールしにくい。しかし「推し」という言葉を使用することにより 、AKBファンという大きな集団が、あっちゃん推しという集団にまで狭まる。その分自身の所属がはっきりするのだ。
この二つの意識は、何も「推し」という言葉だけに表れているのではない。例として、「推し歴」というものがある。自分がその推しをどれだけの間応援しているか、ということを示す際に使われる言葉だ。推し歴が短ければ短いほど、ファンの中での地位は低いものとされる。このようなファン区分もまた、上記二つの 意識のもとに生み出された区分なのではないかと私は考える。
今、AKB48のファンという集団は拡大し続けている。拡大すればするほど、ファンたちは「推し」や「推し歴」で自分達を区分し、自分の地位の確立を図る。そのような行為により、ファンたちは満足を得ているのではないだろうか。
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# by kmr-sato | 2011-05-11 05:59

「現代のアイドルとしてのAKB48」(5)

21 ひとつめ
 選べる手軽さ、身近さ。一昔前のアイドルといえば、松田聖子のような国民的ミューズもしくはモーニング娘。のような、誰が見ても納得のだいたい美少女集団であり、崇拝すべき対象だった。しかし、現代のアイドルであるAKB48は違う。一クラス分ある人数の中から自分好みの子を選べ、消費できる(推せる)こと、ファンに選択の余地があること、つまり与えられるもの全ての消費から選択する消費へとの変化こそが非常に現代的だと感じる。もうひとつ、今は会いにいけないアイドルになりつつあるが、コンセプトの「会いにいけるアイドル」はアイドルの敷居をぐっと下げたように思う。かわいいあの子に会いにいく、応援するという一見対等な関係がファンの「俺がアイツを育てる」という欲望を満たしているのではないか。現代ではインターネットなどを通し、一般人でも自由に批評や意見を発信することが容易なため、一介のファンがインターネット武装をすることで大きな影響力を持つことも不可能でない。そんなこともあり、本来あった上下関係のようなものがとりこわされ、対等もしくはそれ以上の立場のような関係ができあがる。価値観の多様化や国民全員発信者という現代の特徴にあわせて、アイドルのあり方も変化するのだと思った。ということは、アイドルをじっと分析すれば、その時代の人々の状態もわかるのか!アイドルすごい。
ふたつめ
 祭りのあるアイドル。もふくちゃんこと福嶋麻衣子氏の著書「日本の若者は不幸じゃない」の書中に「学園祭ビジネス」という単語が使われている。もふくちゃんの作った言葉で、学園祭を作りあげるような一体感、居場所をビジネスとするものであり、ファンと共に祭を行うまでの準備期間にこそ価値があるという。AKBでいうところの、総選挙がこれにあたるだろう。総選挙まで、アイドルとファンが協力して票集めをする。モー娘。メンバーはファンのいないオーディションによってプロデューサーによって選ばれるが、AKB選抜メンバーはファンによって選ばれる。当然、推しメンを選抜入りして活躍させたければ、票集めのがんばりが必要になる。時にファン同士でネット掲示板やブログ、SNSを通して呼びかけあったり、投票数を報告しあったりしながら、祭りの準備をしていく。そうして、祭り本番を向かえ、さらに大きな一体感と達成感、そしてアイドルからの「ありがとう」により、それまでのがんばりが報われる。時にサプライズによって新たな祭りへとシフトしていく。終わらない学園祭が、ここにはある。このようなファン同士、ファンとアイドルの一体感こそが、個人化している現代人が求めるものであり、現代でAKB(他にも今ブームの地下アイドルなど、身近なアイドル)がウケる理由ではないか。

22               現代のアイドルを応援するためには、テレビの前にいるだけでは足りない。アイドルは昔から“ブラウン管の向こう”にいる遠い存在だが、現代ではそんなに遠くないのかもしれない。AKB48は身近なアイドルとしてデビューした。遠くからテレビを通してみる、なんとなく現実から離れた存在ではなく、小さなライブハウスで実際に会うことができる。デビュー当時に比べチケットが入手困難になった現在でもこのようなファンとの繋がりは守られている。もはやファンにしてみても、テレビの向こうからアイドルに憧れを抱くだけでは弱い。CDを買うのも当たり前。もっと積極的に参加していかなければならない。ライブに行って実際にアイドルに会うことによってこそ堂々と自分はファンだと宣言できるのだろう。
 現代はアイドル戦国時代といわれるほどアイドルがあふれている。私自身は“不真面目な消費者”であり、アイドルたち、その曲の一つ一つを差別化していくのは困難である。このような受動的な消費者はどんどんアイドルの世界から取り残されてしまう。充実したネット環境が要因の一つだろう。CDを買わなくても曲やジャケット写真、歌詞は簡単に手に入る。この方が安く手間もかからない。少し気になる程度ならYou Tubeで聞けば十分である。しかしファンにとってはCDの特典が重要である。AKB48の場合、AKB商法と揶揄されもしたが、CDに限定の写真や総選挙の投票権を封入し、そのCDの付加価値を高めた。どのファンでも平等に恩恵にあずかることができる。ここがAKBの魅力の一つでもある。
 アイドルは消費者を巻き込んでいかなければならないと同時に、視聴者自身も積極的に参加していかなければならないのである。この二点においてAKB48はある程度の成功を収めたのではないか。そしてかつてのアイドルという遠いいわば非現実的な存在をリアルの世界に生きる個人であると認識させた。AKB48はファンや消費者はアイドルと決して交わらない世界ではなく、身近な存在であるという現在のアイドル観の先駆者であるように思う。

23                “現代のアイドルとしてのAKB48”。そう聞いて私が真っ先に思ったことは“現代のアイドルとしてではないAKB48”とは何かということだった。そしてそこから行き着いたことは、秋元康プロデュースという点で、現代のアイドルである“AKB48”と現代のアイドルではない“おニャン子クラブ”の比較であった。
まず、私が注目したのは、楽曲である。双方のほとんどの楽曲が秋元康によって歌詞されているのだが、ゆえに、似たようなタイトルも多数存在している。たとえば『セーラー服を脱がさないで』/『制服が邪魔をする』、『およしになってね TEACHER』/『Dear my teacher』、『真っ赤な自転車』/『2人乗りの自転車』など、前者がおニャン子クラブ、後者がAKB48なのだが、非常によく似ていることが分かる。しかし、タイトルが似ていても歌詞はその時代のアイドルという存在をよく反映していることに注目したい。
アイドルの黄金期とも呼ばれたおニャン子クラブの時代。素人っぽさを売りにしていたとはいえ、やはりアイドルはどこか手の届かない別世界の存在であった。メディアへの露出がテレビに限られており、また握手会なども極めて少なく、プライベートが謎に包まれていたからだ。つまり、アイドルはファンの想像で作られており、アイドル自身は常に受け身の状態であったのだ。
それに比べ、アイドル戦国時代と言われている現代はどうだろう。現代のアイドルの代表であるAKB48を見ると、「会いにいけるアイドル」というキャッチコピーの通り、劇場公演や握手会を頻繁に行っている。またメディアの露出もテレビに限らず、近年発達してきたWebや携帯など幅を広げている。ブログというコミュニティツールも、アイドルたちが自分たちと同じ世界にいると実感できる一因と言えるであろう。つまり、アイドルはファンの想像で存在しているのではなく、アイドルという存在を自らアピールしているのだ。
そう考えると、おニャン子クラブの歌詞は、過激なことも言ってはいるが、しかしながらどこかイメージ通り、可愛らしく恥じらいのある禁欲的で草食的な歌詞に。AKB48の歌詞は、現代の女の子の本音をストレートに歌った肉食的な歌詞が多いことに気が付く。たとえば、セーラー服を脱がさないで(『セーラー服を脱がさないで』より)/キスしなさい(『制服が邪魔をする』より)、およしになって TEACHER(『およしになってね TEACHER』)/Kiss me BABY!(『Dear my teacher』)、このままどこかに連れてって(『真赤な自転車』)/君となら走り続けたい(『2人乗りの自転車』)などが挙げられる。
 よって、“現代のアイドルとしてのAKB48”とは、握手会や現代ならではのブログなどのコミュニティツールを使ったり、本音を歌うことで、ファンとの距離を縮め、同じ空間に存在しているということを実感させてくれるアイドルではないかと私は思う。そして、そんな身近なアイドルの存在が多くの人々に受け入れられ、求められているのが“現代のアイドル・AKB48”を支えているのではないだろうか。

24                 AKB48は「会いにいけるアイドル」として2005年に秋葉原からスタートしたアイドル集団だ。いまや日本で「AKB48」を聞いたことのない人はほぼいないと思われるほど有名になっている。
AKB48は女子だけで構成されているが、男性のみならず同性にも大きな支持をえている。AKB48は先ほども述べたように、元々はふつうの女の子たちだ。アイドルになるために奮闘する様子は多くの人々に勇気と力を与えてきたようだ。そして、いくつかのチームに分かれていて、選抜や総選挙などのイベントを おこなう。活動全体でキャッチコピーを多用する。これは、ひとつの学校生活のようだ。ひとりのお気に入りを応援し、その子を通して努力・友情・夢などを共有し、一種の女子校生活を疑似体験できる。「青春2回目を体験しているようだ」という声を聞いたことがある。これは大規模な集団だからこそできることである。
そして、楽曲がとても多い。自分たちのチームをおす歌が面白い。「チームB推し」という、その名とおりチームBが自身たちをプッシュする歌だ。アイドルとしてアイドルの自分たちを売り込む歌詞。歌の中には一人一人の名前と決め台詞のような見せ場があり、ファンも大いにもりあがる。これは逆にもともとB推し のファンをガッカリさせたかもしれないが、この歌の楽しそうな雰囲気に新しくB推しになった人も多い模様である。
こうして大きくなってきたAKB48だが、アンチや無関心も存在する。実際私はあまり関心がないし、どちらかというと悪い印象をもっている。以前彼女たちがゲームやトークするテレビ番組をみたとき、彼女たちを怖いとおもった。どこか必死さややり過ぎ感があったからだ。そのある種の滑稽さは「かわいい」を通 り越して「痛々しい」とすら感じさせた。
しかしこれはアイドルたちが歌以外をみせる、ステージ上でのオフ状態ともいえる。AKB48は成長する集団であり、ファンたちはそれを見守る親の目だ。歌っているのとは違う姿を親の目で見るからとてもかわいいのだろう。
現在研究生も含めると48という数字からはかけ離れた人数を誇るAKB48だが、これからはどう成長していくのか気になるところである。

25          「グループアイドル」の良さとは一体何だろうか?
2005年に秋元康プロデュースによって誕生したAKB48(AKB)。私が彼女たちを知るようになったのはその数年後だが、第一印象も特にぱっとしたものではなかった。女の子がたくさんいるグループがまた出来てたのか、程度である。
「また」というのは、私が小中学生の時に全盛期であったモーニング娘。(以下モー娘。)をふまえての印象だ。当時友達の家に行くとみんなでモー娘。の振り付けビデオを観てダンスを覚えたりしていたが、私にはいまいちその良さを感じることができなかった。その思いがAKBを知った時再び私の中に現れたのだ。
特にずっと感じていたのは、「たくさんいれば良いってもんじゃないだろう」という思いである。AKBやモー娘。以前にも、女の子が群れになって歌い踊るグループアイドルと呼ばれる存在はいくつも居る。その多くが解散していく中でなぜこのように繰り返し「グループアイドル」が生まれていくのだろうか? 先述したように自分がリアルタイムで聞いて育ったモー娘。と比較しながら「グループアイドル」としてのAKBについて述べたい。

私はJポップ批評の雑誌を読んでいてこのような文章を見つけた。
“〈娘。ライブ〉観賞は、アリーナ席でなく4階席が最高!”
“娘。ライブの最大のウリは、集団が醸し出すダイナミズム…とするなら、それを最も堪能できるのはアリーナではなくて後方席なんじゃない?”
この部分を読んで驚いた。アイドルを見に行くのなら、いやアイドルに限らず、自分が好んで行くライブは出来ればステージの近くで見たいと思うのが当たり前ではないのだろうか?という私の考えに対し、この発言は著者がモー娘。をアイドルではなく「グループアイドル」として見て、ライブを楽しんでいることをよく表している。さらに、人気の高いとされる『Mr. Moonlight~愛のビッグバンド~』のPVに関しては
“なんのことはない、この曲では、主役の吉澤・準主役級の後藤となっちの3人ばかりに焦点が当てられている。そのせいで、他のメンバーの動きがまるっきり単調になりがちで、娘。の「群舞」の面白さがまるっきり損なわれてしまっていたのだ”
もちろん必ずしもモー娘。ファンのすべてが同じように考えているわけではないだろうとは思うが、群れで歌い踊るという点がモー娘。の大きな魅力であるということがわかる。
ではAKBはどうだろうか。いまやよく知られた情報だが、彼女たちAKBは「会いに行けるアイドル」をコンセプトにしたグループアイドルである。遠い存在であったそれまでのアイドルとは違い、毎日専用劇場で公演を行う「生」を可能にしたアイドルなのだ。決して大きくないその劇場で、ファンは間近で彼女たちの姿を見ることができ、そうするとメンバーひとりひとりをじっくり見つめることもできる。そうして自然とその中から自分が特に応援するメンバーが出てくる。グループアイドルでは必ずといっていいほど、特に○○が好きと言うファンがいるが、これまではなかった「推し」という言葉を流行らせたのは他ならぬAKBである。AKBは、「個」を重要視した「グループアイドル」なのではないだろうか。
また、各TV番組や雑誌ではメンバーが1人ずつで出ていることも実に多く見られる。どこに出るにしてもあの大人数で出るのはさすがに限界があるとは思うが、特に人気のメンバー数人で出演、というわけでもない。ここでも「グループの中の個」を見せていると感じる。対してモー娘。は、メンバー全員以外でメディアに現れたのはほとんどが卒業してから、もしくはソロデビューした時くらいだったように思う。
たとえばAKBのあっちゃんこと前田敦子が元々ソロでデビューしていたら、彼女は今ほど人気になっていただろうか?おそらく出ていないと私は思う。あの人数の中で歌い踊るからこそ光り、つい目で探してしまうのだ。

年齢の近い同じグループアイドルだが、視点を変えると「グループ全体を見せる」モー娘。と、「グループだからこそ、その中で個を見つめる」AKBという見方ができる。
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# by kmr-sato | 2011-05-11 05:58

「現代のアイドルとしてのAKB48」(4)

16               アイドルというと、これまではテレビや雑誌などのメディアを通してしか見ることの出来ない遠い存在であった。実在する人物であるのに、人々にとっては非現実的な存在として受け止められる。コンサートのチケットが取れたからと言って、大きなコンサート会場では、本物は肉眼ではほとんどよく見えない。だがその非現実感や距離感が、アイドルの良さであり、アイドルを、よりアイドルらしく輝かせていた。
 しかし、現代人が欲しいのは、リアルさである。テレビのバラエティー番組をつければ可愛いタレントやアイドルは幾らでもいて、彼女たちの「かわいい」のパターンはほとんど決まってきており、ワンパターン化しつつある。さらに言えば、完成された「かわいい」アイドルを見飽きてしまった感もある。テレビにアイドルが映ろうとも、メディアを通して見ることに慣れている現代人にとっては、記号的にしか映らないのである。インターネットが普及した今の時代には、現実感の無いものは響かない。現代人は、テレビに映る芸能人を見るよりも、芸能人たち本人が更新しているブログをチェックすることの方が頻繁になってきているようにも感じる。テレビでは明かされない、彼らの日常や、本音に興味があるのである。
AKB48は、こういった現代社会に沿う形でプロデュースされたアイドルではないだろうか。今までのアイドルと違うところは、秋葉原にあるAKB48劇場で、ほぼ毎日公演を行い、間近で本人たちを見られるということだ。そして、彼女たちは歌やダンスの経験がなくても、1~2か月のレッスンでデビューするため、公演を通して日々成長していく姿を見ることが出来るため、ファンとの距離感は公演を行う度に縮まっていくだろう。そして、13枚目のシングル曲では、選抜総選挙が行われ、上位の21名がシングル曲を歌うことが出来る仕組みになった。毎年行われるようになったこの総選挙では、ファンの投票によってAKBメンバーの順位が決まるため、ファンにとっては、自分の投票がメンバーの運命を握っているとも言える。そして発表される順位に喜怒哀楽し、より一層、メンバーへの愛着が湧くのかもしれない。
今や社会現象とも言えるほどにAKB48が時代の波にのっているのは、他のアイドルと違い、こういった日々の公演や選挙によって、ほかのアイドルには無い、密接なファンとアイドルとの関係や、メンバーへの思い入れが生まれるように構成されていることが、その要因の1つと言えるだろう。AKB48は、今までのアイドルたちが築いてきた形式立った素振りや笑顔の可愛さ以上に、自分が種を蒔いて育てた花のような可愛さを持ち合わせているのではないだろうか。

17               AKB48のコンセプトとして有名なのが「会いに行けるアイドル」である。AKB48劇場という専用の劇場で毎日公演を行うことによって、今まで遠い存在とされてきたアイドルを身近に感じてもらい、成長過程をみてもらおうという意図がある。このコンセプトに基づくAKB48とファンの関係は、今までのアイドルとファンの関係には見られなかった点がある。AKB48が行なっているあるイベントを例に挙げて考察していきたい。
各メディアに大々的に取り上げられ、AKB48の知名度を全国的なものとした選抜総選挙に注目したい。この選挙はファンの投票によって選抜メンバー、メディア選抜が選ばれるというものである。よってメンバーが歌えるか歌えないか、メディアに出られるか出られないか、決めるのはファンということになるが、この点は今までのアイドルとファンとの関係とは異なると感じる。今までのアイドルを応援する手段はCDの購入、ライブの参加が主であり、アイドルが自身のパフォーマンスをファンに与えるといった、ファンが受動的になる関係性を両者は築いていた。しかし、AKB48とそのファンの場合、ファンの投票はメンバーそれぞれの活動の範囲や内容に直接関与してくる。ただ公演を見ることによって身近に感じるだけではなく、メンバーの活動に意見を言えることでも身近に感じられるのでないだろうか。そしてアイドルがパフォーマンスを与えるだけではなく、それを見るファンもそのパフォーマンスやその内容に直接関与することでファンも能動的になっていると考えられるのではないだろうか。
近年、パフォーマンスを与えられるだけであった観客が共にパフォーマンスに参加したり関与したりする風潮が至るところで見られると私は思っている。パフォーマンスという非日常的な世界を傍観するだけでなく、その世界に自分も身体ごと入ってしまうのだ。例えばAKB48の公演でも見られる合いの手である「ヲタ芸」は観客も共に歌い、合いの手を叫ぶことで身体ごと参加していると言えるだろう。またアイドルとはまた違ったジャンルで、アメリカから日本に上陸し人気を博している『ブルーマン・グループ』だと観客がステージに上げられ巻き込まれることもあるそうだ。
このようなことを考えると現代のアイドルとしてのAKB48は、そのファンがどのメンバーにメディアに出てほしいか、歌ってほしいかを直接意見が言えるという、近年の「パフォーマンスと能動的観客」という関係性をおおいに語ることのできるものであると感じる。

18              現代のアイドルとして観たAKB48とは。それについて考えると、私がまず念頭にくるのはやはり「キャラ化」や「アイデンティティー」という単語である。これはAKBだけに見られる特性ではなく現在活躍しているアイドル、芸能人に見られる共通した特性ではないかと私は考えている。今まで、芸能人やアイドルと言われて思い浮かぶ単語は「綺麗」や「かわいい」「格好いい」といった外見的特性のみだったが、近頃はそれだけではないように思える。同じ「可愛い」「格好いい」という単語でもその意味が違ってきている。違ってきているとは具体的にどのような点でということを説明するのにいい一般例がある。「雰囲気、格好いい(イケメン)or可愛い」よく使われるこの言葉の「雰囲気」という所だ。初めは「服装」や「髪型」によるお洒落さによって格好良く、可愛く見えるという意味で使われてきたが、今は、文字通り「雰囲気」、その人の放つ言葉や性格の魅力を示しているようである。これに「可愛い」「格好いい」の変化は準ずるものではないかと私は思う。要は、外見<中身といってしまうと極端であるが、更に細かく定義するならば、視覚情報より個性を優先する世の中になりつつあるということである。ただの流行ではなくこれは、「ゆとり教育」が施行された頃から少しずつ浸透した新しい思想でもあるだろう。「個性」を要求された私たちはいつの間にか他人にも「個性」を要求するように、渇望するようになっているのかもしれない。そのように考えればまさに、AKB48は生まれるべくして生まれるべきアイドルといえよう。「被る(現代の若者が最も畏怖している)」ことのないキャラは「個性」を求められ、渇望している私たちにとって羨望するものであり、必要不可欠なものでもある。もしかしたら、AKB48の「キャラ」は参考に自らの「キャラ」を作る材料になるかもしれない。「○○になりたい」という言葉も「○○(キャラ)になりたい」と言い換えることは可能だろう。一昔前の「○○のようにスレンダーな体型になりたい」という意見は今では少数派なような気がする・・・。

19               AKB48が国民的人気に発展した要因を三点挙げるとするならば、まず、グループであるという点が挙げられる。現代のアイドルはグループという形態を取っていることが多いが、グループの場合、「この中で誰がいい?」という会話になりやすい。その結果、自分で好みの対象を選ぶという行為を行うことによる満足感、更 にはわずかにインボルブメント効果も起こしていると考えられる。インボルブメント効果とは、自分の関与したものを好きになってしまうという心理作用のことで、今までAKB48に興味がなかった人がこのように一人を選ぶことによって、AKB48との関わりができ、結果としてAKB48に興味を抱きやすくなるのだ。これはソロアイドルでは生まれない効果であり、グループであることの利点といえる。
 次に、接触回数が多いほど親近感が増すというザイオン効果を用いている点が挙げられる。現代的な媒体であるYouTubeの公式チャンネル、メンバーによるブログだけではなく、「会いに行けるアイドル」としての劇場での公演、握手会など、様々な場面でザイオン効果を用い、ファンにアイドルとの距離が物理的にだけではなく、精神的にも縮まったように感じさせているのだ。
最後に、アイドルとファンの共感という点が挙げられる。AKB48はメディアを通した遠い存在だったアイドルを身近に感じ、その成長していく過程をファンに見てもらい、共に成長していくアイドル・プロジェクトであり、一ファンである自分もそのプロジェクトメンバーであることを感じる演出がなされているのだ。その演出である選抜総選挙では、選抜メンバーを目指し頑張る アイドルの目標を叶えられるのは自分の一票なのだと感じるため、結果が出た時の嬉しさや悔しさをアイドルとファンは共有できるのだ。それが成立するのは、アイドルとファンの距離の近さによってであり、一ファンである自分が応援しているアイドルの力になれているのだとより感じることができるからこそ、アイドルとファン の間に共感が生まれるのだ。

20                AKB48と少女時代 ~日韓の民族性、音楽事情の比較~                                     
                  音楽番組を見ていて違和感を感じる時がある。ライブで歌を歌っている時ではなく、予め録音した音源に「口パク(「かぶせ」と呼ばれ、録音した音源を流した上で生歌を歌いマイクのボリュームで調節していることもある)」で歌を披露している時だ。
モーニング娘の後藤真希が体調不良でコンサートを退場した際に流れていた歌声。ミュージックステーションでジャニーズの山下智久がマイクを落とした時も何事もなく歌が流れていたように、辻褄の合わない事や不審に思う根拠等、しばしばファンの間では議論が巻き起こる。
「口パク」については、J-POPのみではなくマイケル・ジャクソンやマライア・キャリー等の洋楽の歌手、K-POPの歌手にも見られる事例である。以前は「テレビ局の音の環境が悪く生では歌えない」という意見もあったようだが現在ではその点も改善され、「激しい動きをしながら歌のクオリティを保つ為」等の理由でなされているようだ。
「口パク」関しては賛否両論があり、「歌手なのだから生で歌え」という意見、「(アイドルが)容姿で魅せる為ならば歌のクオリティは落としてもいい」という意見様々だ。ファンの中でのこの二者の対立は全てに共通して見られることと考える。
日韓の女性アイドルグループであるAKB48や少女時代も「口パク」をすることがある。しかし、韓国の音楽番組では以前「口パク」が問題として取り沙汰されて以来、生歌である時は画面上に「Live」の文字の表記、そうでない時は何もないというのが大きな違いとなっている。生歌披露にこだわる番組もあればそうでない番組もあるが、視聴者はそれがどちらなのかすぐに判断つくようになっている。
こういった白黒はっきりさせたがる所は韓国人の国民性とも言える。更に少女時代は曲中にほぼ9人のメンバー全員のソロパートが見られるが、AKB48はAメロやBメロであっても複数で歌うことが多い。
同時代の二国でそれぞれ人気を集めた2グループには、音楽業界事情以外にも人数、曲構成、ダンス等に違いが見られる。選抜メンバーと言えども10数名が横一列に並ぶような活動をしているAKB48には、個人の意思をはっきりと示さずに群れたがる日本人の姿が重ねて見えるような気がする。
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# by kmr-sato | 2011-05-11 05:57

「現代のアイドルとしてのAKB48」(3)

11              AKB48は、秋葉原の劇場を中心に活動しているが、現在では全国で握手会を行ったり、毎日のようにテレビや雑誌、広告などで目にするような国民的アイドルグループになった。
 数多いAKB48の楽曲の中で、今回は「初日」の歌詞からAKB48について考えてみたいと思う。「初日」はAKB48チームB 3rd Stage「パジャマドライブ」の楽曲の一つで、12thシングル「涙サプライズ!」と2ndアルバム「神曲たち」にも収録されている。
チームBは、他のチームより下に見られることが多かった。しかし、チームBの「初日」はシングル曲や他のチームの曲をおさえて2009年のファン投票で1位に輝いた。他の年の投票を見ても、公演曲で1位になったのは「初日」のみである。このことから、この曲がAKB48ファンに絶大な支持を得ているということがわかる。
 「初日」は、自分たちがステージに立つまでの努力や苦労を歌詞にし、努力を重ねてステージに立ち続けようとする彼女たちの姿をそのまま歌にした曲である。本来のアイドルは努力や苦労を隠し、ステージに立つ。しかし、この曲ではステージに立てない、歌えないという不安に怯え、学校とレッスンの両立に悩み、周りのメンバーと自分を比べてしまうアイドルを目指す普通の女の子が描かれている。キラキラしたステージに立って、笑顔で歌い、踊っているが、影で様々な努力をし、悩み、苦しみながらも夢に向かって必死に頑張る彼女たちの姿を見て、ファンは自分の姿を重ね合わせ、夢や希望を抱くのだと思う。
 AKB48のデビューシングルであり、2008年のファン投票で1位になった「桜の花びらたち」のPVでも、厳しいレッスンを受け、努力しているメンバーの映像が映されている。
 AKB48を見ていると、今のアイドルはキラキラした完璧な女の子よりも、ひたむきに努力をする身近な女の子が支持されているのだと思う。ファンは、握手会や秋葉原の劇場に通うことで「会いに行けるアイドル」のAKB48に親近感を感じている。以前、「AKB48のどこに魅力を感じるか」というアンケート結果を見たことがあるが、顔のかわいさや、歌やダンスのパフォーマンスを抜かして、努力をしているからという回答が最も多かった。選抜総選挙においても、頑張っているメンバーを実際に支えて育てていきたいというファンの心理が表れている。
以上のことから、現在のアイドルとしてのAKB48は人々にとって身近な存在で、影で努力をしながらひとつひとつの公演を一生懸命行い、「頑張れば夢は叶う」と人々に希望を与える存在であるといえる。

12             AKB48は今最も注目されているアイドルグループです。昔からハロプロやジャニーズなどたくさんのアイドルグループがありますが、AKB48は他のアイドルグループとなにが違い、どういった点が魅力的なのでしょうか。
AKB48の1番の魅力であり、他のグループとの違いは、「会いに行けるアイドル」というコンセプトの下作られたということだと思います。アイドルというと、ファンに夢を与える存在であり、ブラウン管の向こうにいる遠い存在というイメージが強いですが、AKB48は秋葉原で毎日公演をやり、それも舞台と客席の距離がとても近いため、アイドルといっても遠い存在ではない、ということをファンに認識させようとしています。昔から足繁く劇場に通うファンは自分自身の「推しメン」(1番応援しているメンバー)の成長過程を目の当たりにすることもでき、これがたくさんの熱心な固定ファンを獲得している所以だと思います。
また、AKB48の一大イベントとなりつつあるもう一つの魅力は選抜総選挙です。これはファンによる人気投票でセンターに立つことのできるメンバーや、メデイア選抜としてテレビや雑誌に出ることのできるメンバーを決めるもので、2009年より毎年行われています。この選抜総選挙はファンに、自分の投票によって推しメンが活躍できると思わせる効果があります。またメンバーにとっても、「今まで選抜であったとしてもこれからもそうであるとは限らない」という緊張感や、「今選抜ではなくても努力次第で選抜になるチャンスがある」という向上心を持たせる効果があります。こういったことはインターネットが普及し、誰でも簡単に投票ができる今だからできることであり、「現代のアイドル」を象徴していることであるともいえます。
こういった今までのアイドルには見られなかった特徴がAKB48にはあり、それが話題を集めて人気を呼んでいます。しかしCDが売れない今の時代に何百万枚もの売り上げを記録し、オリコン1位を獲得している背景には、様々な特典をつけることで同じCDを何枚も買わせるAKB商法といわれるものがあり、批判の対象にもなっています。それでも汚い方法であるかもしれませんがこういった商法はその世界で生き残るための知恵であり、有効な方法であると思います。

13               AKB48は、今や日本を代表する「国民的アイドル」である。しかし、彼女たちは本当に「アイドル」なのだろうか。
アイドルとは、一般的に皆に知られるポップ歌手、その他芸能界のあらゆるジャンルで活躍する人気者を指すが、AKB48はその名前や曲、CD売り上げなどの経済効果こそ広く知られているものの、一人一人の顔と名前の認知度は未だ非常に低い。それでも現在のような人気までAKB48が上り詰めた背景として、プロデューサー秋元康の戦略が挙げられる。
AKB48はもともと、ドン・キホーテ秋葉原店での小さな劇場で「会いに行けるアイドル」というキャッチフレーズのもと、非常に親近感ある存在として誕生した。その後インディーズ時代などを経て現在の人気までに至るが、彼女たちの特徴といえば「総選挙」と呼ばれる人気投票である。CDの特典として封入されている投票権を求め、一人のファンが大量に購入することから「CD付き投票権」と揶揄されるなど批判は避けられないものとしてあるが、一般のファンが活躍自体にここまで携わることは今までにはなかった斬新な方法である。
かつてアイドルとして成功を収めた良い例として、松田聖子やおニャンコクラブなどの存在が挙げられるが、彼女たちは皆完成されたぶりっこさや自由さ、もしくは未熟なそれらそのものが愛されたのだと考えられる。対してAKB48は、その成長過程を見守り、時には自分たちがその成長の手助けになっていると意識出来ることが愛される理由の一つではないだろうか。
選挙による人気順でシングルCDリリースの参加メンバーを選ぶなど、ファンありきの活動はますます彼女たちを身近に感じさせ、「自分がいなければ」と、情がわく。言うなればAKB48はタレント養成事務所のようなグループであり、ファン一人一人がプロデューサーなのである。舞台の上で活躍するアイドル達をただ応援し、ただ憧れるだけの時代は終わった。多くの普通の女の子たちから自分のお気に入りを見つけ、自分の手でスターへと磨き上げていく、というAKB48のスタイルは新しいアイドルの在り方なのである。

14              今人気のアイドルグループAKB48。彼女たちは現代において、アイドルというものの市場における新しい在り方を提案したと考える。つまり旧来のアイドルはコンサートでの直視が限界であったわけだが、AKB48はコンセプトが”会いに行けるアイドル”であり、CDを買って握手会に行けば握手できることはもちろん、実際にあこがれの彼女たちと話せる。この身近さが人気の秘密なのではないか。しかし、旧来はむしろアイドル=遠い存在、雲の上の存在というようなものが魅力だったのではないだろうか。ではなぜ現在このような”身近なアイドル”が人気なのだろう。それは以前と今の若者に変化があるからではないだろうか。現代の若者はやたらつながりを求めているように思える。携帯が手放せないという人はたくさんいるし、mixiやtwitterのとようなSNSをまったく利用していないという人はほとんどいないといっていいのではないだろうか。そんな中、旧来のアイドルに比べて簡単に会いに行けて、ふれあえるアイドルは特別なつながりを感じられるわけで、当然需要は高いはずだ。
また、現代の若者はみんなと同じことをやりたがる。上記のつながりと少々かぶるところはあるが、誰かと一緒という共通点を見つけることで安心感を得る。その共通点をアイドルと見つけることができればその安心感はさらにでかいのではないだろうか。このように身近な”会いに行けるアイドル”としてのAKB48は、現代の若者の特徴をうまくつかみ、つながりや安心感を提供したというてんで大成功を収めたのだろう。AKB48の人気を深く考えるとこのように現代の若者の特徴が浮き彫りになる。

15              今回私が問いを立てたことは「AKB48と現代社会(メディアとの)の関連性」についてである。
彼女たちは「会いに行けるアイドル」としてプロデュースされ、今では日本を代表するアイドルとなった。
では今までのアイドル(かつての松田聖子やモーニング娘など)とはどう違っており、社会と関わっているのか考えてみたいと思う。先ほども述べたように彼女たちは「会いに行けるアイドル」である。このように身近さを感じ取れる特徴がいくつかある。一つ目に秋葉原の専用の劇場を持ち、ほぼ毎日講演を行っている。今までのアイドルはテレビなどの媒体を通して、またCDの音を通して、間接的に会うことが主とされていた。かつてのアイドルとは、「アイドル」以外の何者でもなく、メディアの中に住む自分とは遠い憧れの存在であったのである。しかし、従来のアイドルとファンとの距離感を破ったといってよいほど、彼女たちには「身近さ」が売りなのである。二つ目に制服姿というどこにでもあるファッションをも見ても彼女たちの身近さが感じ取れる。他のアイドルはアイドルらしいファッション(普段では着ることのないだろう派手なファッション、舞台用のような)を着用していたし、それがアイドルの在るべき姿だったような気がする。三つ目に総選挙によってメンバーが入れ替わることである。
これはファンのみならず、その他一般の人たちも自由に意見を言うことが出来、
その反応が選挙結果として返ってくるという今までにない身近さがある。
ではなぜ現代社会ではこのような「身近さ」という特徴を持ったAKB48が絶大な人気を得ているのだろうか。
今日、様々なメディアの普及、ネットの急速な進化によって誰でもどんな情報でもすばやく手に入れることが可能となった。
特にSNS(mixi,twitter,Facebookなど)の普及によって誰でもある人が発信した情報を共有することが可能となった。
またブログの登場で芸能人の私生活が垣間見ることが出来るようになったことも注目したい身近さのポイントである。
これらのSNS,ブログの存在の登場により、芸能人は身近な存在となり、
それと同時期に「会いに行けるアイドル」としてAKB48が誕生したのではないだろうか。
言いすぎであるかもしれないが現代メディアが生んだアイドルであるかも知れない。
また移り変わりの激しい時代である。ひとつひとつのブームが過ぎ去るのも、この情報社会の特徴の一つである。
そんな移り変わりにも負けていない要素としての一つに総選挙があるのではないだろうか。
ファンが飽きないように、常に新しいもの、斬新なものを作り出すための手段なのである。
しかし一歩離れて見てみると、残酷なアイドルのようにも感じられた。
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# by kmr-sato | 2011-05-11 05:56

「現代のアイドルとしてのAKB48」(2)

6                   会いに行けるアイドル」というコンセプトの下、秋葉原の劇場から生み出された 48 人のアイドルたち。その後デビューしてから5年の月日で、劇場からトップアイドルへと上りつめてきた。それまでの道のりで、彼女たちは様々なイベントを催し、人々の関心を集めてきた。秋葉原の劇場でのライブに行けば、アイドルたちと触れ合え、 CD を購入すれば、アイドルたちとの握手券が付き、グループ内で順位をつけあうなど、アイドルに対する欲や、人気あってのアイドルなどということを透明化し、アイドルの深層を提示してくれ、メディアで注目される話題性を常に持ち続けた結果が、今あるのではないかと思う。
さらに、 AKB48には荒木経よしや、蜷川実花、篠山紀信などといった名高い写真家たちが手掛けた写真があるなど、より高い付加価値がつき、さらに広範囲なジャンルにも手を伸ばし、多くの人びとの関心をさらっていく。このように、彼女たちを人気者に仕立てた様々な要員があるが、私は「繋がり」という視点からAKB48を読み取っていきたいと思う。デビュー当初の売り文句、「会いに行けるアイドル」がやはり人々から注目を浴びる第一歩になったはずである。劇場に足を運べば、大きいとは言えないステージを、比較的至近距離で見ることができ、最高のパフォーマンスを見せてくれる。そして、終演後にはさっきまでステージに、立っていた彼女たちと、ハイタッチができたり、一緒に写真を撮ることができる。また、そのステージが毎日開催されているため、毎日だって顔を合わせることもできる。(毎日ステージに立つチームは違うが。)このような経験をした人々が一回きりで、この劇場を後にすることができるのか。この劇場に足を運んだ人々は、AKB48たちを身近な存在に感じることができ、そのように感じた人々のことを、応援したくなるのは当然のことである。ファンたちはAKB48との繋がりをこういうところで、経験し応援し続けているのではないかと思う。CDを購入すると握手券がついてくるというのも、劇場に行くよりも敷居が低いため、より多くの人々が彼女たちと会う機会を得ることができる。そしてまた、次回発売されるCDを手にとってしまうことだろう。
AKB48ニューシングル「Everyday、カチューシャ 」のPVは、これまで発売したきたシングルのPVのオマージュで作られている。このようなPVを見ると、これまでのPVを再び見返したくなり、AKB48との時間がさらに増えることになり、どんどん深入りしてしまうのではないか。こうして、PVが過去への繋がりを提示してくれる。その集積がこれからの、AKB48の道も繋いでいくのだろうと思う。

7           「会いに行ける」アイドル=等身大~憧れの女の子のストーリー     
        2006年のデビューより5年、秋葉原に専用劇場を有し、今や国民的アイドルと言われる「会いに行ける」アイドル、AKB48。なぜ、「手の届かない憧れの的」であったアイドルは今、こんなにも身近になったのか。それは、個々人がブログやtwitterなどを通じ、誰しもにひらかれたアイドルの日常を垣間見ることを可能としたことだけではない。AKB48の特徴と言えば、その大人数のメンバー構成、またそれゆえによる選抜(PVへの出演やメディアへの露出をかけたオーディション)、総選挙(CDを購入したファンによる人気投票ランキング)の存在である。メンバーは今までのアイドルグループ以上に個人個人のPRのため、そのキャラクターの確立を迫られる。キャラクターの確立については昨年の総選挙で見事一位を獲得した大島優子も「自分のキャラを見つけないとってずーっと考えて悩んでました」(Quick japan 48号 p52 太田出版)と語っているほど、メンバー自身も重視しなければいけない点である。また、この個人のキャラクターの確立が重視されている点はAKB48のPVにも反映されている。
AKB48のPVはドラマを描く。「会いたかった」では放課後、「大声ダイヤモンド」では文化祭、「言い訳Maybe」は部活、「涙サプライズ!」は休み時間など、多くは女子高生の生活を思わせる舞台設定で、そこには主人公や友人たちがいて、困難を乗り越え、彼女たちが成長していくストーリーが描かれる。どの舞台もだれもが高校時代に1度は経験し、またある時はあこがれてきた出来事である。
2009年から2010年にかけて軽音部に入部した女子高生の日常を描いたアニメ「けいおん!」がヒットしたが、第2期「けいおん!!」OPでも部活、ライブ、廊下、教室、講堂、校庭、階段などが描かれる。ヒットの要因は楽曲や楽器のみではなく、だれしも必ず経験し、だれしも憧れたようなキラキラの瞬間がうつし出されているからではないだろうか。AKB48のPVにも「けいおん!!」と共通した"キラキラの瞬間"が描かれている。
それではAKB48の「大声ダイヤモンド」のPVをみてみよう。するとどうやら学級委員のような役割の渡辺麻友、文化祭でAKB48をやりたかった松井珠里奈、中心になって練習をする小嶋陽菜、周囲から近寄り難い存在としてみられていた篠田麻理子、受験勉強が大事で練習に集中できない前田敦子、ダンス部のリーダー宮澤佐江、ダンスの始動に励む板野友美、秋元才加、高橋みなみ。
ストーリー仕立てにすることで大人数が舞台にあがっていても、登場人物(役)のキャラクターをみせることができる。わずかなコマ数であっても、クローズアップによって、まるで1つのクラスをみているようにバラエティ豊かな彼女たちを描くことができているのが特徴的だ。
更にここに挙げたメンバーの名前は総選挙や選抜で常に上位にいる(=メディアへの露出の多い)メンバーである。よって従来のアイドルグループのPVに見られるメンバー各々のポジション(誰がどの位置につこうがPVで描くテーマに大きな差は生まれない)よりも、AKB48のPVの配役を得ることはハードルの高いものであることが伺える。また選抜というシステムによってメディアへの露出が変化する点は彼女たちの努力や成長の成果を示す場である。
Youtubeなどのメディアが主導権を握る現代において、なかなか秋葉原まで行けない多くの人が同じようにPVを目にし、高校生の日常を演じる彼女たちにある者たちは興味を示し、あるときは共感し、ある時は憧れるのである。
なかなか触れることのできなかった存在から、共感を得ることや、成長していく姿を大々的に示していくことで、ファンの"応援したい"気持ちを刺激し、すぐ近くで応援できる、誰でも会いに行くことができるアイドル、AKB48が作り上げられているのである。

8                  AKB48はアイドルでありながらも、70年代80年代のアイドルや現代のアイドルよりもファンサービスがものすごく優れていると思います。ファンサービスはファンにとっても、アイドル自身にとっても必要なことですがこのことに関してAKB48はいろいろなファンへの催しを行っているようです。
 例えば、300回公演を観にきてくれたファンとドライブができたり、抽選で一緒にお花見にいけたり、、、、AKB48はファンとの交流をとても大切にしているような気がします。しかし、インターネットが流通した今日であるからネットで簡単にそのような応募ができたりするのかなあと感じました。松田聖子の時代に、ファンと一緒にドライブなんて言ったらありえないことです。そのありえないことを行動するAKB48と秋元康はすごいなあと感じました。
 歌も歌えてかわいくて踊りもできる、そんな人材が昔のアイドルとして存在していましたが、現代化していくことによってグラビアアイドル、声優アイドル、浜崎あゆみといった容姿がきれいで作詞作曲も手掛ける歌手など、現在はアイドルが細分化されてしまってきています。そのことによって昔のアイドルにはなかった部分が目立ちます。私の母がよく言うのですが、「昔のアイドル歌手はなんとなく歌っているだけでかわいく評価されていただけで、歌が特別上手なわけでもなかった。モーニング娘。やAKB48のほうがまだ上手」ということをよく言っています。松田聖子の昔のPVを見ると、とりあえずかわいい女の子らしい洋服をきて、それに相応するようなしぐさを演出しています。AKB48のヘビーローテーションの最初の部分で大島が一人ダンスをするような部分がありますが、かわいいとは私は思いませんでした。でももし松田聖子がこのような踊りを当時していたらきっとアイドルとは少しかけ離れた人材として存在していたような気もします。AKB48はかわいいを取り入れながらかっこいい演出をし、その間にあるギャップをファンに注目させている気もするなあと思います。

9                はじめにAKB48はアニソンを中心に歌う水樹奈々といったアキバ系アイドルとして目されているがここではアキバ系とは違う一般芸能人として論じる。何故ならプロデューサー秋元康が率いるAKB48のこれまでの記録をみるとどう考えてもアニメソング界ではなくJ=POP界を指標にした活動を行ってきたからである。
 AKB48は多数の人数によって編成されるアイドルユニットである。この多数の人数(五人以上)によるアイドルユニットの前身にはモーニング娘。がいる。ここではこのモーニング娘。をAKB48の比較対象にしていく。もっとも比較するのはそれぞれのユニットの方向性をつくるプロデューサーの在り方であるが。
 モーニング娘。はいわゆる2000年型アイドルであり当時の子供たち(特に女子)の憧れに代わる存在であった。モーニング娘。自らも当時の流行に沿ってヤンキーファッションをするなど若者を率先するファッションリーダーの一面を覗かせている。彼女たちはアイドルがいなかった時代に現れた正しく“アイドル〟だった。
 しかしモーニング娘。を“アイドル”へと導いたプロデューサーつんく♂は
アイドルという言葉を嫌い、あくまでプロの歌手、芸能人をプロデュースしているという見解を示した。彼にとって“アイドル”とは自分で自負するものでは決してなく、あくまで周りから賞賛して受ける称号だという意識があったからである。
 対して秋元康はもっと前時代の大型ユニットおニャン子クラブから小泉今日子の「なんてたってアイドル」という曲を発表するなど「アイドルはアイドル」とアイドル論を狙った企画を進んで行ってきた。勿論AKB48もこのアイドル論を基底に活動している。
 興味深いエピソードに以前おニャン子クラブで成功し、かつトップクラスで人気だったメンバーの高井麻巳子と結婚していた秋元康が先輩としてなのか
モーニング娘。をつくったつんく♂に「メンバーの誰かと結婚しろ」とアドバイスしたというものがある。ちなみにつんく♂は自分がプロデュースしたユニットメンバーとは結婚していない。
 秋元康にとって女性歌手、“アイドル”は自分を含めた男性にとって魅力的な者をがなって始めて自分がプロデュースして映えるという考えがあったのだろう。だがつんく♂は全く別に自分にとって魅力的に見える美人をプロデュースするのは至難の業とした。理由に異性として見る目を持ってしまってはプロデューサーとして務まらないという考えがあったからである。
つんく♂はインディース時代を通してプロの音楽家として生きてきたという生粋のプロ意識が根強くあり、モーニング娘。に対してきっちりプロの歌手として扱うようにしていたのが窺いしれる。
プロの歌手以前に“アイドル”として売れる路線を追求してきた秋元康と
音楽家としてプロの歌手をプロデュースすることを追求したつんく♂とでは全く相容れないものがある。
言い換えればモーニング娘。が健康的な芸能人として歌手王道を追求したとするならばAKB48は(極端に言えば少女の性を売り物にする)アイドルの商品化を狙った王道とは言い難い路線を追求しているのだ。
だからといってAKB48が邪道かというとまた違うと思われる。AKB48はもともとの「会いにいけるアイドル」というコンセプトの名の下外神田に劇場を設けてメジャー進出してもなおチームごとに日替わりでほぼ毎日公演を行っている。数の多さでもそうなのだがこうした活動は画期的といえる。AKB48は今の時代に生まれた新しいアイドルの形を示しているのではなかろうか。
 蛇足だが個人の感情を述べてしまうとあまりAKB48を歓迎したくない。
全然唄が歌詞が心に響かないからだ。あからさまな商法戦略のAKB48が今のJ=POP界を支配していると思うとげんなりするしJ=POPの廃れを感じる。
そういう考えが浸透しているのか松本隆、つんく♂などかつてJ=POPを先導してきた音楽家がアニメソングを手掛けたりしている。(「マクロスF」星間飛行、「イナズマイレブン」つながりーよ)社会現象にまでなった「けいおん!」などいまや、アニメソングはCDリリースとともによくネットにデータが流れるにも関わらず、CDの売り上げを伸ばしオリコンの首位に立ったりし、正当な評価を得ている。彼らはJ=POPという音楽のメジャーなはずの世界から、アニメソングというまた別のカテゴリー、世界に価値、可能性を見出しているのかもしれない。

10                AKB48のメンバーには公演のときや総選挙に使う、キャッチコピーがあります。わかりやすい例を挙げると、チームBに所属する「らぶたん」こと「多田愛佳」のツンデレがあります。ポスターは、総選挙のときのポスターです。
  
他にもAKB48からの派生ユニットである「渡り廊下走り隊」は、グループそのものが妹系といわれています。彼女達の曲「ギュッ」のPVの冒頭には、まゆゆの「せーんぱい!」という声からはじまり、いかにも年下の守ってあげたいような妹系の女の子達という感じがします。(http://www.youtube.com/watch?v=N9L61kHJpE4)
そして、そのPVに登場する風船のような人形は見る側の視点であり、キャラとしてのアイドルが都合のよい存在であることがわかります。

AKB48は公演ではチームごとに活動していて、そのなかで特にキャラが強く表れているのは、チームBの公演だと思いました。例えば、「チームB推し」という歌では、メンバーがひとりずつ前に出て行って、ファンにアピールをします。
(http://www.youtube.com/watch?v=pq5o6WBcYd4)
歌詞には「大勢いると迷うでしょ、誰かひとりを応援して」という箇所があったり、「パフォーマンスが目をひいたら、推し変してもかまいません」という、過剰なまでの自己(キャラ)アピールがあります。

そんな中、あっちゃんこと前田敦子には、目立ったキャッチコピーのようなものが見つかりません。私は、そんな彼女は「キャラがないことを演じている」と思います。
前田敦子の所属する、チームAには「胡桃とダイアローグ」という歌があります。
(http://www.youtube.com/watch?v=4sUUyIcdmKc)
この歌は表面上では、男女の秘密の恋愛を描いているのですが、私には、「キャラを演じている良い子の私」と「そうではない本当の私」を表現しているように感じました。「胡桃を割ったら聴こえたわ 閉じ込めたその声が 真実知ったらもう元に戻れなくなるでしょう?」という歌詞は、本当の自分を見ないふりしている少女の心境だと思いました。
メンバーが持っている本は、演じるための教科書であり、前田敦子が持っている真っ赤なガラスのハートは、彼女達の探している「本当の私」なのかもしれないと思いました。しかし、最後に前田敦子が赤いハートを落として割ったことは、また見る側の要求に応えるために、アイドルとして演じる自分に戻っていくことを表しているように思いました。
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# by kmr-sato | 2011-05-11 05:55

「現代のアイドルとしてのAKB48」(1)

1                        偶像というのがアイドルの言葉の由来らしい。そういう意味で言うならばAKBはアイドルではないのだろう。会いに行けない唯一無二の存在がアイドルだというならば、徹底した「会いに行けるアイドル」は矛盾するあり得ない存在だ。しかし「会いに行ける」ことが彼女たちをアイドルたらしめるのだから不思議だ。AKBの握手会に何回も行ったり、総選挙のために何枚もCDを買うというAKBオタクの友達にその魅力について聞いてみたところ「普通の子たちが努力している姿が見られること」、「育てる気持ち」だという返事が返ってきた。ふつうの青春をすべて捨てて必死に「アイドルをしている」姿を見ると応援したくなるらしい。また晴れて選抜に選ばれたメンバーがどんどんきれいになっていく姿を見ると、もっと応援したい、わたしがこの子を引っ張ってあげたい、育てたいと思うそうだ。AKBの子たちはものすごくかわいいわけでも、ものすごく歌や踊りがうまいわけでもない。しかしだからこそ伸びしろがあるのだろう。舞台の上の唯一無二のアイドルは触れなかった。「見られる」プロフェッショナルだった。しかしAKBはどうだろうか。頻繁に行われる握手会・客との距離が近い劇場・応援がそのまま反映されるシステム。触れる・会いに行ける・育てることができるアイドルは「見られる」プロフェッショナルではない。「見せる」存在でもない。彼女たちは自らのメッセージを伝えるパフォーマンスはしない。計算された素人さからくるぎこちない「見られる」こと(計算されたぎこちなさは優美ではないが笑いに近く、これも親しみやすさを生むことに繋がるのだろう)。また会えるということからAKBから客への「見る」視線が生まれたのだとわたしは思う。昔のアイドルにも「見る」視線はあったのかもしれないが、とても強い「見る」が生まれたのだと。「育てたい」「覚えてもらいたい」そう思うのはアイドルを偶像でなく自分と同じ「人間」だと、「見る」目を持つと意識しているからだ。AKBもその期待に応える。応えないといけないシステムもそこにはある。整ったk-popアイドルやperfumeからは「見せる」を感じる。AKBからは「見る」を感じる。どちらも形は違えどもアイドルの新しい形なのだろうと思った。

2                        本来アイドルは憧れの対象、現実とは異なる完璧な存在とされてきた。しかし、近年多様化してきたアイドル像は、それと対極に位置する身近なアイドルを創る傾向に現在ある。その傾向を象徴するのが「会いに行けるアイドル」としてのAKB48の存在である。彼女達のシングル作品を通して現代において彼女達がどう存在しているかを考える。
まず彼女達の作品のテーマを考える。テーマは多岐に渡り『桜の花びらたち』に代表される彼女達の主な衣装である制服からも連想しやすい卒業ソング、また『RIVER』に代表される人生への応援歌、『涙サプライズ!』に代表される友情をテーマにした楽曲、そして『会いたかった』に代表される片想いの頃のかわいらしさや純粋さを歌う恋愛ソングといったように“いい子、純粋な子”を連想させる楽曲は数多く存在する。しかしそれと同時に『制服が邪魔をする』や『ヘビーローテーション』のPVにも見られるように、女性としての一面や恋愛におけるスリルなど“危なさ”も彼女達の楽曲には存在する。彼女達には「社会に求められるかわいくていい子=女子の願望」を演じると同時に、「背伸びして大人を演じる幼い子=ファンの欲求」を演じるという矛盾が存在しているのである。
現代は周りの目を気にすると共に各々が自己を見つめ、自分とは何者かを問うことが非常に重要視される時代である。人間の内面はほとんどの場合矛盾を抱えるが、他人の目を気にするとそれは隠すべきものと扱われる。「女子の現実」と異なる「女子の願望」、また見る側としての「男性ファンの欲求」や注目されることを願う見られる側としての「女性ファンの欲求」がアイドルを応援する、もしくは楽曲を真似することで満たされているのではないだろうか。つまり彼女達は「人間の願望・欲求に忠実なアイドル」であると考える。
今後、NMB48やSKE48といった彼女達の妹分の出現も手伝って、この身近で人間の矛盾を含んだアイドルはしばらく現代社会を反映し続けることだろう。

3                       私が「アイドルとはなにか」というテーマで現代のアイドルを考える時に、比較対象としてまず頭に浮かぶのは、現代と正反対の70年代のアイドルである。例えばキャンディーズや山口百恵・南沙織などは、純粋さ、無垢さを前面に押し出していたと解釈する。その中にも女性としてのクールさ、ちょっとした危険さ、大人への反骨精神というものも感じる。当時、実際にはいないけれど「こんな子がいたらいいのにな」という願望を含む【偶像】 を、アイドルが体現する必要があったと思う。「テレビの中でしか会えない。」ことをむしろ売りにしていた時代であったし、言動や行動も偶像化しており、インタビューの時だけ答えさせられているような感じだ。彼女たちは「手の届かない人」「雲の上の存在」であり、そんな彼女たちにファンは、一人のアイドルに対して熱烈 な愛情を持って、下から見上げる感じであった。垢ぬけた今時のメイク、舞台で映えるきらきらの派手な衣装など、女性としての美しさという点でも、ファンにとっての【絶対的な存在】であったと感じる。
一方で現代のアイドルの象徴AKB48は、もはやアイドルが世間や人々にとっての【絶対的存在ではない】ということを体現している。テレビ番組で普通の会話をして、はしゃいだり騒いだり、汚れたり、こういった全てが「AKB48」としての芸となり、「こんな子いるいる」とファンに思わせ、アイドルをより近くに感じさせる。
また手の届く場所にいる人である以上に、自らの手でチャンスをつかんだ勝ち組の人たちであることも、より近くに感じられる。総選挙といった、競わせていることをあえて見せるパフォーマンスによって、ファンはますます「自分たちの一票によって、彼女たちがどこで歌うかが決まる」という充実感を味わう。「自分 たちのおかげで」の意味も含む、むしろちょっと上から目線でアイドルを眺めることができる。
「あなたが大切です。」とブログやテレビを通して毎日のように言われる中で、自分(たち)を必要としてくれていると自負し、よりリアリティを持って、恋人が居るような感覚になれる。いかにもアイドルらしく振る舞うという不自然さが70年代にはあった一方で、今は素顔を出している感じで、話す時も歌う時も無理な感じはしないため、=若者の【偶像ではない】。超絶な美人やとてつもないオーラを出す人が一人もいないことが人気を呼んだのだと思う。「いもっぽくない」「かわいいけど突出していない」「どこの学校にも、一人・二人は居るかわ いい子」として存在する彼女たちに、【憧れる】より【惚れる】感覚なのではないか。
最後に、70年代は【楽曲】が、そのアイドルを象徴する圧倒的な媒体であり、歌手活動が主であった一方で、現代のアイドルにおいては必ずしもそうではないことに興味を持った。歌に対して特別な執着や憧れは必要なく、日常生活の延長・AKBのパフォーマンスの一つの在り方として歌があると感じる。最近は昔と比べてダンスが多く取り入れられるようになり、歌のみでなく、歌+ダンス、さらに+プロモーションビデオ(それも一つの物語としての完成度が高い)、すべて揃って初めて「AKB48のパフォーマンスとして」成立している。たくさんのユニットを作っているのも、あくまで歌メイン、もしくは歌という芸で世の中に挑戦してやろう・打ち出してやろうというより、元あるそのメンバーの違う一面や、他メンバーと組む事で生まれる新たな【人】としての光り方や魅力を見せるための戦略な気がする 。また、ファン自身もそれを望んでおり、「もっと近くに見たい、違う一面を見てみたい、感じたい」というファンの欲望を満たすためのパフォーマンスであると思う。つまり音楽そのものの力は、70年代の時と比べて格段に弱まっている。そうすると、アイドル=アイドル歌手という私のイメージは崩れ、また「自分たちが彼女たちを支え、動かしている」とまでファンに感じさせる現代のアイドルは、なぜアイドルである必要があるのかとも疑問に感じる。

4                         AKBが「現代のアイドル」と言われる最大の特徴は、「表面的である」ということではないだろうか。「表面的」であることが良い悪いということではなく、現代社会やメディアなしでは生まれなかったアイドルであり、なぜ「表面的」といえるのか、という部分について論じていきたい。
 現代のアイドルの流れを作ったアイドルとしては、先にPerfumeが挙げられる。テクノ系音楽グループと称するPerfumeのダンスは、人間的な動きを極力避けたものである。初音ミクに歌わせ、踊らせることが可能であるものとも言える。むしろ初音ミクが担っていた部分を実際の人間が行なったことで、聴衆は驚きを感じるという「2次元から3次元への転換」があったと考えられる。Perfumeは、あーちゃん・のっち・かしゆかの三人で構成されているが、トーク番組出演などでそれぞれの個性も人気の要因であるとしても、Perfumeのパフォーマンスはダンスや歌の技術力さえあれば、誰でも再現可能であるかもしれない。また、再現可能なアイドルとして、相対性理論のやくしまるえつこも挙げられる。マスメディアにはあまり容姿を見せないため、ウィスパーボイスであればもし「やくしまるえつこ」ではない他の人物にボーカルがすり替っても、告知されない場合気づかず聴き続けるだろう。
では、AKBはどこが再現可能的で、表面的であるといえるのか。AKBはPerfumeや相対性理論と比較すると、「会いに行けるアイドル」であったこと(現在はもうそのレベルではなくなっているが)や、「~推し」などそれぞれ固定ファンがいたりと、AKBのメンバーひとりひとりを簡単に他人が「再現可能」とは言い切れない。しかし、「総選挙」という最下位まで全員を順位付けて発表したり、口パクであること点からも、メンバーひとりひとりの個性や存在を大切にし、魅力としているとは考えにくい。今までメンバー全員に順位付けしていたアイドルグループはなかっただろう。それだけAKBの「中身」は柔軟に変化していくものであり、変化していくことを拒まない、むしろ変わることを売りにし、流行を劣化させない策略をプロデューサー秋元康氏は考えているのではないか。その策略を受け、聴き手側も柔軟になっていると考える。「~推し」というのは流動的に変化してもよく、「◯◯も応援しようかな」など気軽に他のメンバーも応援できたりする。また、人数も多いためTV出演にはセンターポジションの前田敦子ですら、毎回いるわけではない。しかし、そこまで聴き手はセンターの存在がなくても違和感を感じたり落胆するわけでもない。
AKBが人気になったことで、「2.5次元アイドル」と呼ばれるようなアイドルも増加してきたと考える。最近2.5次元アイドルという言葉は雑誌でも大きく取り上げられており、2次元のアニメのキャラをコスプレする「3次元から2次元タイプ」と、アニメやゲームの声優が実際にアイドルとして姿を現す「2次元から3次元タイプ」の2種類が存在する。Ustreamの浸透やディアステージなどの空間の人気で、「スター」にならなくとも簡単にメディアに露出したり、ネットと現実の場を行き来することが容易になった。このようなメディアの発展からも、AKBは2次元と3次元の相互性から人気を博したアイドルであり、その文化を定着させたアイドルであると考えられる。
以上のことからAKB現代のアイドルとして「表面的」な部分をとことん追求し、そこに魅力を生み出すことができたアイドルの代表的な成功例である、と考える。

5  AKB48とファンとの距離感は、TGCのモデルと観客の女の子たちの距離と似ている。TGCの魅力は“モデルたちが着る洋服を買える”ということにある。女の子が手に届くものに魅力を感じるようにAKBに魅力を感じるファンは“お金を払えば会える”という手軽さに魅力を感じているのだ。女の子達とAKBファンの決定的な違いは自分のものにならないことである。そのファンの所有の欲求を商品としたのが『アイドルと恋したらAKB1/48』と『AKB5400sec/AKB600sec』である。私は二つの商品のコンセプトに着目する。

『アイドルと恋したら AKB1/48』(2010.12.23)
AKB48を容赦なくフッていく、究極の恋愛妄想ゲーム
本作はAKBの48人全員が「アナタのことを大好き」という状況でゲームが始まります。
ただし、あなたが選ぶことが出来るメンバーは48人の中からたった一人。
次々とアプローチをしてくる48人のアイドルを容赦なく振り、ただ一人の真の推しメンを選ぶことができますか・・・?
サイト:http://psp-akb48.channel.or.jp/
購入者コメント:http://jin115.com/archives/51741638.html
http://review.rakuten.co.jp/item/1/213310_13934122/1.1/

『AKB5400sec』『AKB600sec』
1日600秒…AKB48を独り占め!アイドルの1日を克明に記録する番組。
600秒じゃ物足りな~い!!というあなたには…
なんとテレビの9倍!5400秒のロケ素材をmicroSDに収録!
携帯でいつでもAKBに会えちゃうんです!
動画:http://ameblo.jp/exileandmakida/theme-10026194391.html
サイト:http://www.ntv.co.jp/akb600/

『アイドルと恋したら AKB1/48』はメンバーの声や動画、写真で出来ている。このゲームの購入者のコメントを見ていると、本気で自分が誰を選ぶか悩み、振ってしまったメンバーに対して心を痛めているコメントが多い。ゲームの中でのキャラクターではあり、国民的アイドルでもあるアイドルがファン一人に振られたというより、AKBにとってたった一人の自分に振られたという妄想を抱いているのだ。
『AKB5400sec』では“覗く”というフレーズが繰り返し使われる。アイドルとしてのメンバーではなく普段の女の子としてのメンバーが映し出される。一例として渡辺麻友を取り上げる。前半は延々とアニメイトで商品を手に取り「かわいい」としきりに言ったり、商品を探して挙動不審になったり高まる様子が映されていた。(買い物をするが高いものは買わない)カフェでイラストを描いたり、化粧を直す姿は普通の高校生であり、過剰な振る舞いはない。途中でインタビューがあるものの買い物中のまゆゆに対し、カメラマンは話しかけない。アイドルがあたかも仕事としてではなくプライベートで買い物をしている(デートしている)という錯覚を抱く仕掛けであると感じた。
2つの共通点はAKBをより身近なものに感じること・持ち運びの出来る簡単なメディアを介したゲームである点、AKBを自分のものにしたい、彼女にしたいというファンには所有の欲求だ。“会いに行けるアイドル”にとってその他大勢のファンとしての自分ではなく、女の子としてのAKBにとってたった一人の人になるということを求めているのだ。
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# by kmr-sato | 2011-05-11 05:54

ほうほう堂は見られず

5/7のほうほう堂公演「ほうほう堂@留守番」は、雨で順延となり、ぼくは土曜日と日曜日に帰省することにしていたので、見られず、残念。さらに、岡本太郎展も見るのをやめて、一本に絞ることに。練馬区立美術館の小林耕平とcore of bellsのパフォーマンス。
artscapeのプロビューではこんなこと書いた。

「パフォーマンス」なるものが「約束の遂行」を意味するとすれば、彼らのパフォーマンスは、その「約束」が遂行不可能なほど過大なものなので、見ていていらいらさせられる。パフォーマンスの間は「失敗」の状態を延々見せられている気にさえなる。けれども、その失敗が予想される課題の遂行は遂行そのものの姿を如実にあらわす。ぼくは、それが好きで、彼らのパフォーマンスを見ることがやめられない。なによりも「遂行とはなにか」をあれだけむき出し状態で人前で見せる勇気を買いたい。(会場にいた観客のみなさん、息子がうるさくてすいませんでした。)

その後、練馬から千葉・東金へ。GWにもかかわらず、道は空いていた。

田舎は、家の裏に田んぼがあり、そこではカエルの声がにぎやかだ。聞けば、必ず、バリ島のことを思い出す。空気が「すーっ」としている。もう東京暮らしの方が長くなってきているのだけれど、もともとぼくはこの空気のなかで成長したのだ。朝と夕方に散歩する。地元のあたりは、地価が下がっていて一軒家が買いやすくなっている、大きな家も多い。魚が旨く、米どころで、都心に住むよりもリッチなのではないかと思ってしまう。

昨日は、早朝にジョグをして(40代で最初の!)、午後、スガハラ工芸硝子に立ち寄った。地元で自慢の硝子製品。とてもセンスが良くて、青山に販売店を出してもいる。併設されているカフェでは、となりの自動車教習所の模様を眺めながら食事ができる。
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# by kmr-sato | 2011-05-09 09:00

講義がはじまった。

5/7
大学での講義が先週からようやく始まった。

四月の大学業務が始まらない20日間くらいは、本当につらかった。なにか強制的に引きこもりさせられているような、息子とEテレ見ながら、ずる休みして小学生が見ているみたいな気持ちになっていた。講義は、ゼミを除けば、4-7月の間で、だいたい50回くらい行う。90分ワンセットのおしゃべりが50回もできるというのは、なかなか嬉しいことだ(ぼくはずいぶんおしゃべり好きなのだと確認)。しゃべることは(こんなこと言うと学生の皆さんには申し訳ないが)、ぼくにとってかなりの精神的「デトックス」効果があるようで、この二週間でとてもすっきりしてきた。

学生のなかには「ブログ読んでますよ」と言ってくれるのもいる。でも最近更新してないものだから、「震災後に、先生なに考えているのかとアクセスしたが全然更新されない」と言われてしまった。「ブログ含め、とくにtwitterみたいな情報の洪水に巻き込まれるのも、ひとを巻き込むのも嫌だったから、ネット上に全然書けなかった」と返事した。本当に、そういう気分だった。

できたら、ブログを毎日とは言えないけれどある程度頻繁に更新していこうかなと思いますが、そう思ったのは、最近、このブログ、誰にも読まれていないような気がするからで、読まれていないなら、むしろどんどん書いていこうかなと。twitterの世の中に、隠れて、ブログする、と。ひそひそ声で、ダンスのこと、その他アートのこと、身の回りのこと、書いて行きます。

昨日は、「夢ナビ」から取材を受けた。大学ではぼくの学生時代では考えられないくらい精力的にオープンキャンパスが行われているけれど、これは大学講義の見本市というか、さまざまな大学から教員たちを集めて、ビッグサイトで講義をさせるというイベントなのだ。教員もパフォーマーであることが求められる時代になってきたということか。30分の講義を準備しなければならないのだが、「30分」しかないので、これは思い切って、早口ラップでもつくってみようかな。

さらに昨日は、取材の後で、3コマ講義を行った後、新百合ケ丘に。「サブロ・フラグメンツ」。とても面白く、新鮮に見た。腕を猛烈な早さで振り回しているさまには、「人力ロイフラー」という言葉が浮かんだ。トリアディックバレエを連想させる場面もあった(ぼくにはそう見えた)。「人力」状態がいいなと思わされた。映像の時代、情報の時代に、あえて「人力」、でもそれがそれであるが故に面白い、そう思わせるところに「ダンス」がいまもちうる最大の長所を見たくなった。「眼の前でひとが猛烈に腕を振り回している」というただその事態に、特別な価値をみとめるべきではないかと。ところで、終幕近くの、床に照明で白いラインが縞状に引かれ、そこにちょこんと体育座りしたり、横になったりしている場面は、どうしても「震災のメタファー」に見えてしまったのだけれど、そして、プログラムの文章からも、そういう読みを促すような箇所(3.11以後に内容を変更したという)があったのだけれど、こうした表現をぼくはいいともわるいとも判断ができないままでいる。震災後しばらく、テレビを消すわけにも行かないけれど、見れば不安になり、はがゆくなってしまうというあの気分にちょっと近いものがあるのかもしれない。震災を無視できないという状況は、でも、積極的に捉えれば、新たな、なにかフレッシュな表現を生むきっかけになるのかもしれない。「戦後文学」みたいに「震災後芸術」とでもいうしかない表現の状況にいまあるのかもしれない。

あ、明日で40だ
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# by kmr-sato | 2011-05-07 06:29

artscape 2011/4

artscapeに批評文アップされました。

大倉摩矢子「Mr.」

高田冬彦『Many Classic Moments』(高田冬彦+平川恒太「第2回 道徳」展)

サンガツ『Catch and Throw Vol.1』
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# by kmr-sato | 2011-05-03 05:36

『10+1』に書いたものたち

震災以後、何も書く気が起きず(いや、本当はそれでも三月には100枚くらいの原稿をいろんな種類書いてはいました、男性ファッション誌『HUGE』に寄稿したり、しかし、こうしたネット上に文章を書く気がまったく起きませんでした)、久しぶりに投稿します。

とりあえず、いまはartscapeなどでお仕事をしている編集者さんから、『10+1』で書いたものがウェブ化されたと聞いていたのに、どこにも宣伝しなかったので、宣伝しますね。

「コレオグラフィとしての都市・東京」(『10+1』No. 47, 2007)

かなり早い時点でのChim↑Pom評です、少なくともまとまった量としては、ぼくが書いた最初のChim↑Pomについての原稿です。

それにしても、今日見たヘンリー・ダーガーの素晴らしいこと(@ラフォーレ原宿)!

フェルメールとかシャガールみたいに、十年後くらいには、超メジャー的な人気を得るのかもしれないな。見ているとふかーい気持ちになる。ふかーく、自分のなかのロリータコンプレックスのなかに溺れて行きそうになる。

あ、そう、そこで菊地成孔さんが、ダーガーみたいな徹底した引きこもりは、ネット的なコミュが発達した社会では不可能だ、みたいなコメントを展示会場の出口手前に吊るしてあったコメント文で書いていたけれど、そうでもあり、そうでもないと思った。菊地さんの文章(思考)は、ある小さい枠をものごとに嵌め込んで、その枠で縁取られた世界を「世界」として語るきわめてエレガントな語り口に魅力のほとんどすべてがあると感じるのだけれど(素晴らしい批評文というのは、ほとんどすべてそういうものだとも思うのだけれど)、その「枠」がひとを縛るところに発生する快楽についても理解しているつもりだけれど、でも、もうそういう「枠」から自由でいたいなとも思うのだ。ダーガーは可能だ。絶対にそうだ。3/11以降、ネット上にほとんどなにも書き残さなかったからと言って、ぼくの人生に何もなかったはずはない。いろいろとあって、ただネット的にそれが公開されていないだけだ。公開されていないものだらけなのじゃなかろうか、人生の大部分は。ダーガーの思いの強さに誰もが打たれる展示だと思うのだけれど、その強い思いが「もうない」などと思う必要はまったくないのではないだろうか。ぼくはダーガーに打たれ、そして未来のダーガーを待っている自分に気づいた。
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# by kmr-sato | 2011-05-02 20:47

バリバラ

バリアフリー・バラエティー(NHK教育テレビ「きらっといきる」金曜20:00-)がとても気になる。(このページからいろいろ過去の動画が観られます。)

twitterで思わずもらしたように、先週は爆笑してしまった。けれど、なぜぼくは笑ったのか、その笑いの仕組みがまだよく分かっていない。「かわいそう」とか「がんばってる」とかそんな理由じゃないはず。既存の笑いがぶっこわれて、なにか新しい次元が開かれていき、その開かれた先に未来があるという感じがしたのだ。

最新の『Quick Japan』でも、とりあげられていた(今月号はとても面白い。買いです。密かに、めちゃいけのBPOに対決した番組は本当に奇跡のように素晴らしいと思っていたのですが、誰もそのことをその後語っていなかったので、座談会でその話題が出て本当にうれしかった、なんてこともあったりなど)。

「鮫肌 僕は去年の中で一番衝撃だったのは『バリバラ』なんですよ。
高須 あれ、どう受け止めていいか、個人的にはわからんねん。
……
鮫肌 番組内容を一応説明すると、「障害もひとつの個性」ってところで、たとえば障害者の芸人がたくさん出てきてネタをやるわけですよ。テレビでメシ食べてる人が一番衝撃を受けた番組だと思う。
田中 幕が開いて車椅子が並んでいる状況なんて、あるわけないと思ったからね。
樋口 『ナニコレ珍百景』のパロディ観ました?車椅子のスロープの下のほうになぜか階段がある映像が流れるんですよ。そしたら「こんなのありえないよ!」ってみんなで笑う(笑)。健常者は絶対に気づかない視点というのが、いい切り口だなーと。」

「中野 番組身観ると、相当巧妙な作り方をしてるんだよね。
田中 うん。『バリバラ』は最初から「笑かそう」って言っちゃってるからセーフなんだよ。途中途中、MCの山本シュウとか、みんな笑っている絵を入れるじゃん。「笑っていいんですよ」ということが視聴者に伝わるようにしてある。微妙に押しつけっぽいけど。
中野 それにあの番組、『きらっといきる』のフレームの中での企画でしょ。福祉番組と同列のものとして放送してるのも巧妙。
鮫肌 それを何の前触れもなくスペシャルでやったのには本当にびっくりした。視聴率はスペシャルで0.6%だったらしい。
高須 それぐらいかー。描き方が納得できなかったり、面白いものとして観るには重く感じる人もいるんやろうね。
樋口 観ないことを障害者へのいたわりだと思ってる人もいますもんね。僕は面白いか面白くないかの判断でイイと思う。」

(『Ouick Japan』Vol. 94, 2011)

大事なのは、ホームページの中で「障害のある人もない人も、一緒に笑いながらバリアフリーについて考えてみませんか。」と呼びかけられている一方で、「「きらっといきる」は障害のある人が主人公です。」という言葉や「障害者の 障害者による 障害者のためのバラエティー番組。」なんて言葉に込められたことではないかと思う。「障害者のための」笑いだということ。


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# by kmr-sato | 2011-03-03 11:26

身体=機械のダンス

Das Mechanische Ballet 1923 by Kurt Schmidt and Georg Teltscher
とあるが、、、

当時のものではないと思うけど

「機械時代」の身体=機械のダンス
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# by kmr-sato | 2011-03-01 14:31


ダンスについて書きます


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