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ルーブ・ゴールドバーグのことファイナル(1)

おはようございます。See Dance 七日目です。

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昨日は結局、息子と遊んでいる間に時が経ってしまいました。夕方一緒にお風呂入ったり。「おかあさんといっしょ」見たり。

今朝は、雪のこともあって(写真は外の様子。八王子では15センチほど積もりました。さっき撮ってきたばかりですが、雪まだ溶けてない)昨日走れなかったので、今日は北野駅まで、iphone片手に。

その後、懸案だった夫婦読書会を決行。8:30から1時間(すごい身の詰まった午前だ!)。読むのは、ベルクソンの『笑い』。第一章から、ぼくが英語訳を読み、妻がフランス語をチェックし、林達夫訳を参照する。今日一番面白かった文章は、

「常に感じ易く、生の合唱に調子が合っており、あらゆる事件が感情的な共鳴をともなうようになっている心の人びとは、笑いを知ることもなければ、理解することもないであろう。」(14)

かな。笑い論なのに「生の合唱」を代表例として音楽を比喩的にも実際的にも取り上げることが多いベルクソン。

「ダンスしている人々が我々に直ぐさま馬鹿らしく見えるためには、ダンスが行われているサロンの中で、音楽の音に我々の耳を塞ぎさえすれば十分である」(15)

なんてあたりは、オーディオ/ビジュアルの関係(とくに映画とか)について考えたりした。まんま『アフロディズニー』的視点だけど、やはりこのあたり時代のものの考え方として興味深い。ちなみに、『笑い』は1900年の著作です。

と、大いなる脱線から始まりましたが、See Dance、今日も開催します。

ダンスが好きだ、ダンスを楽しみたい、面白がりたい、フィジカルにまた知的に。

でも、別に、ジャンルとしてのダンスに縛られる気もない。「ダンスだな!」と思えるものに執着して、その魅力の謎に少しでも(昨日よりも)迫れたらそれでいい。

自分の「ダンスを見るまなざし」を確認したいのです。

えーっと、いろいろと「それは、こういうわけで」と注釈を加えたくなりますが、飛ばします!

……

さて、ぼくは以前のエントリーで、
////////////////
なぜひとはチェイン・リアクションを見たがるのだろうか?

この問いに関して、暫定的ですが、解答を三点考えてみました。

(1)「生命」を見たいから
(2)異質なるものの生命の中継を見たいから
(3)世界を異質なるものの生命の中継として見たいから
////////////////

と書き、(2)の途中まで進んだと思います。その続きからはじめましょう。

Mia Doi Todd "Open You Heart"

を見たところまででしたね。あらためて、これ見てもらえるでしょうか。いかにも、ゴンドリーらしい作品。カラフルでかわいい。歌手が、家から出てくると彼女を追いかけるように世界が変化していきます。その変化をさしあたり、「ルーブ・ゴールドバーグ」的(かなり拡大解釈ですが)と見てみることにします。ここでは、色の連鎖が、同じ色とか補色とか、「チェイン・リアクション」として展開していると見ることができます。ゴンドリーの特徴と言えると思うのですが、日常のありふれた状況にちょっと手を加えることで、そこに日常では起こりえない出来事が、しかし、あからさま非日常(日常からの逸脱)ともいえない微妙な距離で展開していきます。

ありえないチェイニングがそのありえなさを保ちつつ、スムースにつながっているのがゴンドリーの表現だとしましょう。ところで、「チェイン・リアクション」系の表現では、この「ありえなさ」と「スムース」のどちらに力点を置くかで、起こることが変わってくると思われます。「スムース」により近づいているのは、例えば、こんな作品。

The Chemical Brothers "Star Guitar"

ただの車窓の景色のようですが、目に飛び込んでくる線路脇の小屋とか電柱とかがやたらと音楽に合っています。途中から気づくと思うのですが、これはCGなんですね。ああ、CGかー、じゃあこんなことくらいちょちょいのちょいだわ、と思ってしまいます(ここがスムースの魔法が脱魔術化され消極的な効果を生じさせてしまうところ)が、それでも、まあ音楽に景色がノっているみたいで、面白いは面白い。

と、考えると、やはりある程度の「ありえなさ」(異質なもの同士の出会い)がなければ面白くないということですよね。

これがひとつの結論なのですが、ちょっと脱線します。

さて、では、こういうのだとどうでしょう。

MGMT "KIds"

冒頭に、You Tubeのような枠が出てきますが、ビデオのつくりとしては、顔をペインティングした小ミュージシャンらしきメンツがパフォーマンスする合間に、音楽に合った(合わせた)ダンス映像がインサートされるというものです。

面白い、また現代的な映像だとも思います。
けれども、なんだか、ぼくはこの映像を見て、不満な気持ちになりました。
そしてなぜそう思ったのか、考えてみました。
ぼくの結論はこうです。

このMGMTはロックをダンスミュージック的に解釈しているバンドだと理解できると思うのですが、そのディスコ性、それがこの映像を生み出していると考えられはしないでしょうか。

ディスコ音楽は、あるベースになるリズムが鳴っていて、そのBPMに合うものであれば、たいていの音楽要素は、その上に乗せることができます。それはとても意外なものを持ち込んでくる場合でもそうです。そして、実際、この映像では、そうした意外なものの持ち込みが随所で起こっています。

それなのに、「ありえなさ」(異質なもの同士の出会い)を感じないのです。どんな要素も、折り目正しく全体のなかに吸収され、おとなしくなってしまっている、と感じてしまうのです。壁紙におどる図柄がどんなに突拍子のないものでも、案外静かにそこに収まっているみたいなことです。

ダンス(ダンスミュージック)・ベースで「チェイン・リアクション」を構想するとでてくるものは、そうした安定感をもってしまうことになるでしょう。(実は、こうした事柄を考えるときぼくがいつも思い出すのは快快のことです。「Shibahama」はまさにこうした状態についての演劇だったのではないでしょうか)

こうした点、息子と「おかあさんといっしょ」のOPを見ていたときに思ったのです。(笑)

あのOPでは「折り紙で出来たものたちが次々と変身してゆく」というイメージが展開されるのですが、紙ではなくCGで作られています。CGは「折り重なり」とか「さっきまでのかたちがべつのかたちへと変化した」といった重層性(奥行き性)や変容性を、あまりに美しく処理してしまうので、あまり実感としてその事態を受け止められないのです。こりゃ、子供の教育的にはどうなのかな、と思いながら見ています。

しかし、ぼくはOLDなのかもしれません。

新しい感性は、CGのなかに巧みに折り紙の性格を読み取るのでも、CGを折り紙として楽しむのでもなく、CG的表現をそのままそれとして享受しているのかもしれません。

その際生じている「チェイニング」に対する心の持ちようは、OLDなぼくのと相当違うものになっているはずです。

おそらく、ぼくの価値観でとらえていてもらちの開かない事態が起こっているのだろうなあと、思います。それでいて、ぼくは相変わらず、「ありえなさ」や変身に魅力を感じてしまうのですが。

(このあたりのことは、以前ちょっとだけとりあげたARなどをちゃんと考える必要があるということなのかもしれません。二次元と三次元の関係について、映像と身体の関係について)

と、脱線が長くなったので、(3)については、別エントリーにしたいと思います!
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by kmr-sato | 2011-02-16 11:12

番外編(1)

息子が背中で寝ているスキに、、、

ホリエモンが主演したミュージカル。集客の新しいモデルとしてまじめに検討するべきなのかもしれない。ダンス公演、演劇公演、のみならず、例えば美術の展示でも、画質がよくて、向こうにこちらの願いを聞き入れてくれるカメラマンがいれば、自宅に居ながらにして、展示を見るという経験が経験として成立するかもしれない。例えば、1500円の森美術館での美術展示をカメラマンに1時間お願いして自宅で見ると1000円、とか。画質の問題ならば、あと5年もすれば解決するかもしれない。
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by kmr-sato | 2011-02-15 10:10

See Dance六日目

おはようございます。

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See Dance六日目。

今日は、昼間、息子の子守り担当なので、更新のペースが落ちるかもですが、
よろしくお願いします。

きれいな雪の朝です。
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by kmr-sato | 2011-02-15 08:22

捩子ぴじん「syzygy」が賞をとった

捩子ぴじん「横浜ダンスコレクション EX / 審査員賞」受賞!だそうだ!

もう数年見に行ってませんでした。このコンペティション。まさか捩子ぴじんがエントリーしているなんて(連絡欲しかったよ!ちょっと恥ずかしいじゃん。)

GUDの一つの成果。よかった。賞というものはいいものです。おめでとう!


2/11のSee Danceにて、ぼくは捩子ぴじん「syzygy」について、
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もう上演して二年近くたつのですが、あらためて見ても、面白いよなー。

この作品の上演にはぼくも関わったので、なんとなく手前味噌なのですが、そんなことで自重するのはよそう。これは、いまの日本における、クレイジーで、クリエイティヴな、ひとつの達成です。捩子ぴじん、すごいじゃないか!これを数年続けたら、なにか「明確なもの」が出てくる気がする。んー。

ここで見てきたのと比べると「syzygy」のポイントは、スピードだ。
かなりヘヴィなタスクが、するするとどんどん展開していく。そのSFチックな、映画的な世界が、舞台上に広がっているという、目指すところがなかなか恐ろしい作品。

あと、重要なのは、「チェイン・リアクション」が起きていること。この点については、次に書きます。

「sygyzy」プロジェクトが、ここで止まっているのは、とても惜しい。小さなトライアルでもいいので、ここを起点にさらなる作品作りを進めていてくれたらいいのに、と思って、二年が経とうとしている。
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と書きましたが、ね。よかった!

See Dance盛り上がってきました!
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by kmr-sato | 2011-02-14 20:15

なぜひとはルーブ・ゴールドバーグ・マシーンを見たがるのか?

おはようございます。

昨日から、NIke+ GPSと一緒にジョギングをはじめました。
今朝(6:50-)も。さむー。5キロほど。radiko.jpでJ-wave。二週間ぶりに戻ってきた別所哲也は鼻声でした。
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今日は雨だそうです。ジョグの帰りには確かにちよっと降っていました。雨はでも春の兆し。

今日もSee Dance、たくさんダンスを見ていきましょう。今週は、ダンスウィーク!(個人的に)

さて、今日のテーマです。

なぜひとはチェイン・リアクションを見たがるのだろうか?

この問いに関して、暫定的ですが、解答を三点考えてみました。

(1)「生命」を見たいから
(2)異質なるものの生命の中継を見たいから
(3)世界を異質なるものの生命の中継として見たいから

(1)「生命」を見たいから
とても大きな話になりそうな解答です。そして、多分、そうしなければ語れないことであると思います。(ベルクソン「笑い」ことを以前ちょっとあげましたが、例えば、この時代のこうした著作のなかで考察されている生命の哲学は無視できないはずです。)

けれども、ちょっとその辺りの理論的なことは、いずれ考えることにして、いまここで行われているのは「イベント」=お祭りですから、こうした視点から感受できる興味深いポイントだけを指摘して、盛り上がってみる、ということに集中しましょう。

ルーブ・ゴールドバーグ・マシーンは、「生命」を見ることになる。そう思いませんか?

「ピタゴラ装置」

機械=生体。生体のような機械。それは、血液を次々とさまざまな部位に運んでゆく血管のように、玉を運んでゆくことで、ぼくたちはそこに生きたものの姿を一瞬(もちろんフィクショナルなものと分かっていながら)見てしまいます。それが面白いのではないでしょうか。

再度そう思って、フィシュリ・アンド・ヴァイスを見てみましょう。

Fischliand Weiss The way things go

彼らの「マシーン」は、科学的な変化を起こして進んでいきますので、物理的でありつつ、ときに生命を感じさせるものです。

さて、「Chain Reaction」展カタログでは、こうした「マシーン」の性格をダンスに引きつけて考えている作家のコメントがありました。ダイアナ・クーパー。彼の考えに、しばし、耳を傾けることにしましょう。

「 あることが別のことを導くというチェイン・リアクションの考えは、人間の身体と心が機能する仕方に似ています。ある意味で、私の心は、これらの問いに応答するために、チェイン・リアクションのメカニズムを用いているところです。つまり、ある思考が別の思考を導き、ということが引き続いてゆきます。即興的なダンスといたずら書きのドローイングの両方とも、チェイン・リアクションのような特質を有しており、私に影響を与えています。即興的なダンスは、避けようもなく身体的ですし、身体と心は、既にあったものにさらに付け加えられる連続する動きを数珠つなぎにしてゆくことに従事しています。即興を通してダンスを創造するとき、協調ならびに遊びの感覚が存在しています。Diana Cooper: The Idea of a chain reaction, that one thing leads to another, resembles the way the human body and mind function. In a sense, my mind is using the mechanism of a chain reaction to respond to these questions: one thought is leading to another and so on and so forth. Both improvisational dance and doodle-based drawing have chain reaction-like qualities and have influenced me. Improvisational dance is unavoidably physical, the body and mind is involved in stringing together a succession of movements that build on preceding ones. When creating dance through improvisation there is a give and take and a sense of play. 」(Chain Reaction, pp. 47-49)

「即興的ダンス」は「チェイン・リアクション」である、とはなかなか啓発的な発言ではないでしょうか。いや、はじめて見たときには、そんなことイメージしたかもしれないけれど、あっという間に、忘れ去ってしまった、そんな事柄かもしれません。クーパーがいいたいだろうことを、ぼくなりに噛み砕くと、即興的ダンスのなかで、身体と心は、瞬時に互いをアクションを起こしてきた対象とみなし自分の次のアクション(リアクション)を試みる、そうした関係にあるということでしょう。

A アイディア(心)
   ↓
B 実行(心→身体)
   ↓
C 心のリアクションとしての動作(身体)
   ↓
D Cに対するリアクションの必要(心)
   ↓
E 動作のリアクションとしてのアイディア(心)
   ↓
F 実行(心→身体)
   ↓
G 心のリアクションとしての動作(身体)
……

みたいなことではないでしょうか。(ちょっとややこしいですけれど)

さて、こうしたリアクションし合う心身の関係に似た関係が、コンタクト・インプロヴィゼイションの二組のなかで起きていると考えることは可能でしょう。そうであるならば、コンタクト・インプロヴィゼイションとは、ひとつの「チェイン・リアクション」なわけです。

これっていうのが見つからなかったので、サンプルとしてContact Improvisation with Stephanie Nugent

おそらく大事なことは、動作が手前の動作に対する「リアクション」であることではないでしょうか。「生命」を見るということは、かならずしも単体の生き物の生き生きとしたさまに感じるものではないかもしれません。なにかのリアクションとしてある欲望が、ある感情がそこに存在しているときに、リアリティのある生命のかたちがたちあらわれる、と考えるべきなのではないでしょうか。そういう意味では、ここにあるのは関係の表現なのです。「コンタクト・インプロヴィゼイション」が魅力的になっているのは、次々とうまくことがすすんでいる場合とは限らないのは、ここにポイントがあるのかもしれません。「関係」が意識されないほどに、するするとうまくいってしまうと、コンタクトの意味がなくなってしまうのです。ダンサーとしては、そうした美しさを目標にしたくなるかもしれませんが、見ている側としては、その美しさは、「はらはら」が減退してしまうがゆえに、望ましいものとはいいがたいところがあります。そんなことを思いながら、映像を見てみましょう。

強調しますが、アクションがリアクションであることを通して、生命は舞台にあらわれるのです。それを教えてくれているのは、身体表現サークルであり、contact Gonzoです。

(2)異質なるものの生命の中継を見たいから
なんだか、すんごく長いエントリーになってしまいそうな予感がしますが、ともかく続けます!

「関係の表現」ということに関わるのですが、「チェイン・リアクション」が面白いのは、「異質なるもの」の間で「生命」の「中継」がなされるからではないでょうか。

いわゆる「ピタゴラ装置」しかり、「The way things go」しかり。普段出会わないもの同士がたまたま出会い、ことを受け渡し続けている、というところに、魅力があるのです。その点で、「チェイン・リアクション」はシュルレアリスムの精神をいくぶんか携えている必要があります。「ミシン」と「こうもり傘」が出会ってこそ、「チェイン」することは面白いのです。その(シュルレアリスムの)程度が低くなると、見ている者は退屈になってきます。

おかなしつながり、それにもかかわらずたしかにつながってゆくこと。

これは、突飛な話に思われるかもしれませんが、映画でいう「モンタージュ」にそっくりです。

ということで、ザ・モンタージュ、エイゼンシュテイン「戦艦ポチョムキン」を見てみましょう。

Battleship Potemkin -Sergei Eisenstein

モンタージュは、別々に撮った、その意味で無関係ともいえる映像をつなげることで、ひとつのシーン、ひとつの意味を見る者に読み取らせる技法です。例えば、この動画の最初のカットでは

A「女が乳母車で階段を下りられずに四苦八苦している」 次は

B「階段を銃を前に向けた兵隊たちが並列して降りている」

わけですけれど、AとBは必ずしも、結びつきが自明であるわけではありません。たまたま並んでいるともいえる。しかし、その一方で、当たり前のように、見る者はそれをつながっているものとして見るわけです。ここには、モンタージュ映画独特の「チェイン・リアクション」が発生しているととらえることができます。その独自性については、これまたじっくりやるとイベントこれだけで終わってしまいますので、いずれ考えることにして、ここでは割愛します。

そーかー、美術とダンスで「チェイン・リアクション」のことを考えてきたのがいま映画が一個増えたわけだね、とお考えになったあなた!そうじゃないのです。この映像という手段は、実は、ダンスの問題にダイレクトに関わっているのです。少なくとも、次のフェルナンド・レジェの作品を見たりなどすると、そう考える可能性のあることが分かるはずです。

Ballet Mecanique

機械 映像 ダンス がここでは融合しています。その融合の要になっているのが、「チェイン・リアクション」だとしたら、どうでしょうか。

ある場面と別の場面が、ある時間と別の時間が、あるものとべつのものが、つながってゆくこと。おかしな「中継」。しかし、それがおかしいものであればあるほど、つながっていると思わされた瞬間そこになんともいえない感動が広がる。そんな中継のスリルをダンスと呼んでみること可能なのではないでしょうか。例えば、こんな「色」のダンスのなかにある「チェイン」のおかしさ、楽しさのなかに!

Mia Doi Todd Open Your Heart by Gondry

もう少し、このテーマ、書き続けたいのですが((3)についてまだなにも触れていないし)、さっすがに、長くなりすぎていると思うので、しばし休憩。
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by kmr-sato | 2011-02-14 11:01

なぜひとはルーブ・ゴールドバーグ・マシーンを見たがるのか?(予告)

ダンスを見る喜びについて、ぶつぶつつぶやくイベントSee Dance開催中です!

ところで、ぼくは木村覚です。(知らないひともいかるな、と)

よろしく!(今日は昼ロロ見てましたよ。)

これから、番外編で、

なぜひとつはルーブ・ゴールドバーグ・マシーンを見たがるのか?

について、考えてみようかと思っています。

直接ダンスとは関係なくなっているように思われるかもしれませんが、そんなことはありませんよ、多分。

「チェイン・リアクション」はモンタージュ映画なのではないか?とか、考え中。

最終的に、遠藤一郎のDrive Photo Music the Movieのことについて書く、なんてことを構想してます。

遠藤?やっぱりダンスじゃないじゃん……?

いやいや、そんなことありませんよ、多分。

ね。

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また明日。
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by kmr-sato | 2011-02-13 22:44

身体表現サークル(6) Rube Goldberg Deviceと(2)

おはようございます。

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朝焼けがまぶしいです。

ムバラクは辞任を表明しました。前途多難でしょうが。世界は刻一刻変化しています。

さて、前回は、身体表現サークルをルーブ・ゴールドバーグ・マシーンとして見るということをしてみました。これからその後半を書いてみよう思います。

ちなみに「Chain Reaction」展のカタログには、他にも

Tim Hawkinson

Steven Brower

Sam Easterson

Roman de Salvo

らが紹介されていました。

こうした「Chain Reaction」系のアーティストたちの「父」のひとり、マルセル・デュシャン。

e0233387_7121249.jpgおそらく、デュシャンの機械へのアプローチとゴールドバーグを重ねつつ、デュシャンの「レディメイド」概念をさらにそこに加えてみることで、いろいろと明らかになることは多いだろう。実際、Michael Northの「Machine-Age Comedy」を読むと、デュシャンとゴールドバーグの関係のみならず、この「レディメイド」概念が加えて論じられており、しかも「レディメイド」概念は、ベルクソンの「笑い」から影響を受けているのではないかという推測がなされている。

このあたりは、みっちりと興味深いことがらが詰まっていますが、いずれ考えることにして、この著作のなかでNorthがルーブ・ゴールドバーグ・マシーンについて、こうした特徴を指摘している点に注目してみることにしましょう。

「注目すべきことに、典型的なルーブ・ゴールドバーグ装置は、電気なしの世界に存在している。動機づけとなる力は、風や水や重力といった自然なのである。最初に「発明」のひとつを駆動させる動機づけの力は、しばしば人間ないし動物の反応から有機的に生成される。それはたいてい痛みであり、漫画の世界にふさわしい、しかしほとんどの場合、恐怖、怒り、嫉妬あるいは混乱としての反応なのである。Remarkably, the standard Rube Goldberg device inhabits a world without electricity, the motive power sources are natural: wind, water, or gravity. Frequently, the motive power initially driving one of the “invention” is organically generated from some human or animal reaction, usually pain, as is perhaps appropriate in the world cartoons, but almost as frequently fright, anger, jealousy, or even confusion. 」(Michael North, Machine-Age Comedy, p. 90)

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これは、なかなか興味深いポイントだと思う。
というのも、いわゆる「ルーブ・ゴールドバーグ・マシーン」といわれているものは、その多くが、この点において、ゴールドバーグ的ではないからだ。それにもかかわらず、ゴールドバーグの漫画の魅力は、ほぼそこに集約されているように思われる。

ゴールドバーグの漫画において「動機づけとなる力」はたいてい自然であり、また人間や動物の反応である。一方「マシーン」の多くは、擬人化されている場合、ひとや動物に模している場合があるとはいえ、ひとや動物の力を漫画にあるようにそのまま持ち込むことは、ほぼ、ない。

デュシャンの「大ガラス」もその点では同じだ。けれども注目したいのは、「独身者たち」の機械がどんな力で働くことになっているのかということ。近くにあった本を参照すると、「独身者たち」の一部である「九つの雄の鋳型」と「チョコレート粉砕器」についてこうある。

「これら九つの鋳型のなかにはガスがつめられていて、それが上端の「毛細管」を通って、中央の七つの三角形の重なったような部分である「濾過器」へ運ばれるという。このガスの移動が独身者たちの欲望の高揚を物語るが、ガスは最後には「チョコレート粉砕器」の回転へと収斂し、つまりは独身者の自慰に終わるということのようだが、これもひとつの読みに過ぎない。」(『デュシャン 新潮美術文庫49』p. 60)

なるほど、ゴールドバーグの漫画に似て「大ガラス」では、人間の身体的なリアクションが機械を動かす仕組みになっているわけだ。

ここに見られるのは、機械に組み込まれる人間、機械と見なされる人間である。人間=機械。しかし、この機械人間は、機械化された人間というよりは、欲望を抱えている、大いに人間的な存在である。

機械として仕組みのなかに組み込まれているからこそ、人間としての本性があらわになっている、というのが、解くべき特徴なのかもしれない。

そして、身体表現サークルとは、まさにそうした特徴をそなえた人間=機械なのだと、考えてみたらどうだろうか。

と、もろもろ考えた後で、あらためて、見てみましょう。

身体表現サークル 02/02 吾妻橋ダンスクロッシング2004年7月公演

「花嫁」が「独身者たち」の欲望を刺激してます(笑 ほんとか)

ところで、

なぜぼくたちは、ルーブ・ゴールドバーグ・マシーン的「チェイン・リアクション」が好きなのか、この問いが解かれなければならないだろう。
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by kmr-sato | 2011-02-13 09:18

身体表現サークル(5) Rube Goldberg Deviceと(1)

いまNHK BS 2でAR三兄弟の番組、見てました。そうとう近い未来に、アート分野にこれ関連の出来事がぼこぼこ起こるのでしょうね。

いま、それで、妻が出来立てのスモークチーズを持ってきてくれたので、チーズだけ食べてはチーズに悪いと思い、ビール(発泡酒)を飲み始めました。2/12の14:50。雪はやみましたが、外は寒そうです。家でダンスのこと考えてましょう。

今回のSee Dance、ぼくのなかでひとつ、縛りを作っています。それは「批判を書かない」ということです。毎年この時期、批判の文章をブログに書き、そこであまり理解のない再批判に合うということを繰り返してきたので、ここでは「批判を書かない」ことを誓います。「批判」と書きましたが、ぼくとしては愛ある……、いや、この際いいわけもしないことにします。

楽しいイベントにしたいのです。
ダンスを愛する気持ちを、静かに爆発させたいのです。
「見るダンス」もあるよ、とちょっとだけいいたいのです。港町に向けて。

……

さて、身体表現サークルについて、これまで書いてきましたが、彼らを考えるのに、もうひとつ別の視点を彼らに差し向けてみたいと思います。そのためにももう一度ご覧ください。

身体表現サークル 01/02 吾妻橋ダンスクロッシング2004年7月公演

(こんなに身体表現サークルを見ること最近なかったですよね。このブログイベントに何人つきあってくださっているのか分かりませんが、10人でもその気になってくれてYou Tube見ながらダンスのこと考えてくれていたら、もうそれでぼくは十分幸福です。できたら「身体表現サークルはじめて知ったよ」なんていう若い人に見てほしい!がんばれダンス!)

見てもらいました?これも、なかなかのものです。
で、こうした三人の動き、とくに冒頭のびんたがびんたをよぶ、数珠つなぎ状態、身体表現サークルのアイディアの魅力のひとつは、ここにあると思います(例えば、こうした点は、contact Gonzoにはやや希薄です)。

そんで、こうした動きをぼくは、「ピタゴラスイッチのあの装置みたいな」と適当に呼んでいたのですが、正式名称とでもいうべき呼び名があったんですね。

Rube Goldberg Machine

正月の頃、ある研究書(Machine-Age Comedy)を読んでいたら、デュシャンの機械的な作品性を論じるなかで、このルーブ・ゴールドバーグ・マシンのことが言及されていたんですね。これで、ぼくは、この漫画家の存在を初めて知ったのです。

どうも、ダダが彼に興味をもっていたらしいとか、現代美術にある程度の影響を与えた存在らしく、また先述のように、デュシャンの「大ガラス」を解く際にその関連を推測されていたりします。例えば、そうした美術との関連でいうと、一番目立っているのは、2001年にWilliam Collage Museum od Artで行われた「Chain Reaction」展。これは、ゴールドバーグを大々的にフィーチャーしつつ、ルーブ・ゴールドバーグ・マシン(デヴァイス)的作品を作る作家たちを集め、展示する展覧会でした。
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しばらく、ゴールドバーグと「チェイン・リアクション」展の紹介をしてから、身体表現サークルに戻りたいのですが。

ルーブ・ゴールドバーグの漫画は、例えばこんな「チェイン・リアクション」を描いています。
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子犬(A)が成長するにつれて、子犬のしっぽ(B)は伸びて、岩(C)を低い位置にしていく、その岩は、クモ(D)をつぶしてしまう。鳥(E)は不幸なクモのために涙を流し、涙(F)がバケツ(G)をいっぱいにする。バケツは糸(H)を引っ張り、ガラス製のカバー(I)をもち上げ、リンブルガーチーズ(J)があらわになる。亀(K)が、扇ごうとしてネクタイの端(L)をつかみ、そこをあらゆる方向に揺らす。そこが結び目のできるようにこんがらがると、ネクタイは適当な感じに見える。もしこの仕事が気に入らないなら、放り投げて、既製品のネクタイを使いなさい。


Rube Goldberg Now you know how to tie a full-dress tie, ca. 1918


なるほど、こうした「連鎖反応」を仕掛けとして考えて、その荒唐無稽なさまを読み手に笑いにして提供するというのが、ゴールドバーグの漫画だということができるでしょう。

そうして、こうした機械的な装置への信頼ともからかいともとれる思いこそが、当時の機械時代の感性のひとつだった、ということもいえるでしょう。そこに、今日の現代美術の基礎を作ったマルセル・デュシャンもいたわけです(ティンゲリーももちろん「父」の一人でしょう)。

そして、こうした「連鎖反応」する機械を現代美術の文脈で制作する作家たちというのが、今日、数多く活躍しています。

代表的なのは、やはり、Fischli and Weiss でしょうか。

The Way Things Go

「Chain Reaction」展では、彼らを「兄」とするようなさまざまな「弟」たちのことが紹介されています。

Arthur Ganson Margot’s Cat Machine with Abandoned Doll

Martin Kersels Tumble Room 

Alan Rath Ambulatory Sculpture and Dancing Robot

など。
ぼくは知らない作家が多かったので、勉強になったし、テクノロジーとアートの融合という点で、このあたりの作家たちをひとつの達成とする見方があるのだろうということは分かりました。が、一方で、これだったら、日本の作家たちだって負けてないんじゃない?とも思いました。

泉太郎「こねる」展

梅田哲也「や」

など。

長くなったので、続きはあらためて。
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by kmr-sato | 2011-02-12 15:48

身体表現サークル(4) contact Gonzoと

上のスキン画像変更しました。
あとで書こうと思っているRube Goldbergの漫画です。

見ているうちに、大事なグループを思い出しました(そう、このイベント「See Dance」の大事なポイントは、まさしく、「思い出すこと」なのです)。

contact Gonzo

いや、彼らを忘れていたというよりは、彼らと身体表現サークルを結びつける自分の中にあったはずの回路を思い出しました。身体表現サークルが活動を消極化してゆくのとちょうど反比例するように、contact Gonzoは存在感を強めていきました。いまや、日本のダンスを語るのに、なくてはならない存在。見てみましょう。

インターナショナル・ショーケース2010 contact Gonzo コンタクト・ゴンゾ

6:20登山用のワイヤーが出てくるあたりからのシーン最高(とくに7:01前後)ですが、ちょっと置いておいて、
4:40あたりからのビンタし合いを、身体表現サークルのそれと比べてみるといいかもしれない。

と、いうことで、
身体表現サークル 01/02 吾妻橋ダンスクロッシング2004年7月公演を見てみましょう。

ちょっと比較してみます、

   cG               身体
激しいコンタクト         激しくはないコンタクト
条件反射的リアクション      条件反射的リアクション
エモーショナル          オートマチック
即興               振り付け(タスク・ルール)

こうすると対立的に見えるかもしれないけれど、そうではなくて、むしろ「接触」=コンタクトのもつレンジとして見た方がいいのではないでしょうか。

なんとなく、今日の「エモーショナルなもの」の人気とcontact Gonzoの人気がつながっているような気もするし、対して身体表現サークルのユーモラス振る舞いが「軟弱」に見えてくる、それゆえに、いけてなく思う向きもあるかもしれない。けれども、必ずしも、そんな風に軍配を決めなくてもいいのではないかと思います。どちらもに、可能性があるはず。

こうして見てみると、日本のダンス、バラエティに富んでいるじゃないか、と思えてきます。
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by kmr-sato | 2011-02-12 12:20

雪だ 今日も書きます。三日目?

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by kmr-sato | 2011-02-12 09:46


ダンスについて書きます


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