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Perfume

今日は仕事場で世の理不尽をめいっぱい吸い込んだ後なので、ちょっと乱暴な投稿を!

Perfume edge

もう、ちょっとすごい、すごすぎです。

伊藤俊治の『機械美術論』を左手に、背中に息子をおぶってダンス!

20世紀が人間(身体)=機械の時代だとすれば、21世紀はさしあたり人間(身体)=情報の時代なのであろうし、その点を無邪気にスルーする表現はすべからく無慈悲にスルーされることでしょう。

そことPerfumeは正面から向き合っていると思う。思う。思う。
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by kmr-sato | 2011-02-28 22:55

ダンサーについて考えた

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2/22火曜日に、振付家・ダンサーの方が数人拙宅に遊びに来てくれました。

そこでの細かい話の内容は省きます。ひとつのエピソードがとても印象に残ったので、それを発端にぼくがダンサー(振付家)について考えているひとつのことを、メモしてみます。

ぼくはその場で、We Danceで聞いた話をしました。室伏鴻のトークイベント、そこで黒沢美香が語ったことについてです。黒沢は、わたしはダンスの公演をみるときにそこに生命を見る、生き生きとしているものを見るのであり、そのことがダンスを見る喜びだ、と言いました(おおよそ、そういったことを)。「生き生きとしている」と言っても、表面的な意味でうまく踊れているかどうかはさして重要ではなくて、その場で苦闘しているその身体が、その苦闘故に生き生きとして見える、そういう身体の生が躍動する現場として、黒沢はダンスの公演を捉えているようでした。その話に、とても納得しながら、同時にぼくはこうも考えていました。

「ぼくにとって、いまそうした生命を見る喜びは、息子を見ることでかなりの程度満たされているように思う。そして、きっと、ここ(ダンスのイベント)にいない多くの人間は、そうした生に興味がないというのではなく、むしろ日々の暮らしのなかで、そうした生と向き合い、その度に黒沢がそしてぼくがダンスで見て感じるのと似た喜びを感じているのではないか。」

さらに、こうも考えました。

「さて、だとしたら、結論はこうなってしまう。ダンスを見なくても、日々の暮らしのなかで、例えば子育てでもしながら生を感じられたらそれでいい、すなわち、生活にダンスという芸術は凌駕されてもいい、と。20世紀以降、芸術が生活との境界線を曖昧にして、生活のなかに自らを浸透させていくと同時に、自らを生活と等価のものにしていった、その結果、生活と芸術がさほど区別がなかったり、生活に芸術が凌駕されるという局面が出て来た。として、ならば、では、生活があればいいのか。芸術は生活の前で敗北してしまうのか。生活にまさる芸術の価値というものは、どこに見いだされるべきなのか……」

で(言葉にすると長ったらしいですが、数秒でこう考え、さらに)、そのときにこの問いに対して自分が与えた返答はこうでした。

「生活に芸術が勝る点があるとしたら、芸術の抽象性というか汎用性において、ではないか。ぼくは息子がなにかのやり方を覚えるにつれ(あるいはそのために試行錯誤しているのを見るにつれ)感動してしまうのだけれど、それはぼくが彼の父親であるからなのかもしれない。彼の生を生として特別の眼差しを向けられるのは、そうした強い個人的なつながりがあるからなのかもしれない。それに対して芸術は、そうした個人的なつながりをいったん断ち切り(故に抽象的な身体を見る者の前に置き)、その状態で誰にでも感受出来るようなしつらえで(汎用的に)見る者に生を感受できるようにする。息子ではなく人間の生について感じたり、考えたりできること、芸術としてのダンスの可能性は、そうした点にあるのではないか。」

なんて考えたんだよって話を、鍋をつつきながらみんなにしたわけです。

すると、ある振付家から、こういう話がでました。(酔った最中で記憶したことなので、ぼくの創作が入ってしまっているかもしれませんが、あしからず)

「ぼくも同じようなことを考える。芸術が生活のなかに入り込んで、生活と化してしまうことが一番怖いことだと思う。例えば、ダンサーや振付家という人たちのなかに、農業に向かう傾向がある。田中民(民にサンズイが抜けています)など。」

この話を聞きながら、ぼくは身体にかかわる振付家・ダンサーは、身体の生命へと探求を進め、次第に、生命そのものへと興味が向かう、ということが彼らのなかで起きているのではないか、と考えていました。ぼくも最近、庭の草取りなんてことをしながら、よく生命の魅力を感じます。草のしぶとさ。根の生え方がいやらしいくらい抜けにくい草とか、綿毛のついた種をつくる草のこととか、本当にこさかしく、生きることにどん欲だなあなんて思います。だから、農業にいったん触れたダンサーや振付家が、その魅力に取り付かれてゆく。それはある意味で、先にあげた、ぼくが息子を通して感じている芸術を凌駕する生活の話と似ています。(ちなみに、ぼくは観劇をとるか子育てをとるか、結構迷うようになってしまいました。比べるものではないと思いつつも、「子育てよりよい公演をお願いします!」なんて気持ちで電車に乗ります。)

さらに、ダンサー・振付家が農業に向かうというエピソードから、彼らの特徴を植物的なものとして捉えてみてはどうかという気持ちが、今朝、わいて出て来たのでした。

ダンサー・振付家は、身体の生についてこだわるひとです。そのこだわりは、身体を、映像化されたものとか、商品のように欲望の対象とされたものとか、生と切り離されてしまったものとかと捉える傾向に対して、相当強い抵抗を示すところによく現れているように思います(ぼくはむしろ、そうした側面からダンスを開発してみた方がいいのではないかと最近考えているのですけれど。あまりそういう考え方は、ダンスの界隈では浸透していないように思います。むしろ演劇のなかではそうしたものの見方は、相当反省されているように見えます)。

彼らは植物のようです。生から切り離されたものとして身体を捉えるなんて、鎌で根を切り取られてしまった草花を扱うようなものだ。植物的存在である彼らはそう叫ぶでしょうか。

脱身体化しているのが、昨今の社会なのかもしれません。

イメージとしての身体、欲望の対象としての身体は氾濫していますが、身体それ自体、つまり生命としての身体はなるべくなら見ないようにしたいというのが、いまの社会の傾向といって過言ではないでしょう。

けれども、そこにあらがう側面がダンスという表現にはあるでしょう。「わたしのいまここで生きている身体を見なさい」ーーダンスはこう観客に語りかけているようです。

これは、正直、うざったいことなのかもしれません。あるいは、日々(育児や介護で)そうした身体とつき合っているのだから、外に出た時くらいそういう身体から離れていたい、ひとはそう思うものなのかもしれません。

もちろん、ダンスという芸術を通して生を見たいというひともいるでしょう。黒沢の話を通して、ぼくが書いた場合のように。けれども、それはいまの(過去においても)社会のなかできわめて少数のひとの欲望でしょう。

少数派だからだめなんて思いません。

大事なのは、この状況に向き合うことではないでしょうか(ぼくはそう思います)。

生命という根からいったん切り離されたかに見えるイメージとしての身体、そのイメージのなかに耽溺している最中にも、リアルの身体は息づいています。「刈り取られた草花」がさまざまな仕方で消費されるさなかにも「根」は生きていて「新しい草花」を伸ばしています。氾濫する「イメージとしての身体」を意識しつつ、「生としての身体」へと観客を導き、生を「生活」とは別の価値のもとでかいま見せること、そこにダンスが果たすひとつの仕事があるように思います。
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by kmr-sato | 2011-02-26 09:25

See Dance 十一日目 

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くもりの日
今日は、横浜に行けるか。
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by kmr-sato | 2011-02-20 10:37

KATHY (5)

ところで、最近の女性グループとしては、彼女たちのことも考えてみたい。

プロジェクト大山 キャッチ・マイ・ビーム!

考えてみたいのだけれど、ぼくはあまり知りません。もちろん、昨年トヨタ・コレオグラフィー・アワードを受賞したことは知っています。その日の上演も見ました。この成果からすれば、昨年の日本のダンスにおける最も評価されたグループのひとつということになるでしょうか。

ぼくは、彼女たちのダンスを見ていると、今日のダンスの状況というのがとてもよくあらわれているなと思う。

彼女たちのダンスは、ある独特なダンス言語を用いているように思う。それをモダンダンスといっていいのか、学校の体育ダンスの延長線上にあるもの、という気がする。彼女たちは、その自分たちの出自をかなり端的に(KATHYで用いた言葉で言い換えるならば、批評的にではなく)用いている。そのことが、今日のダンスの状況をよくあらわしていると思うのだ。

趣味の共同体の並立。

批評的に、過去のさまざまなスタイルを引用して、そのあり方を反省するということではなくて、それぞれのお好みのスタイルのなかで遊ぶ。

彼女たちに限ったことではなく、それぞれがそれぞれの趣味に閉じてそれぞれの好みのなかに閉じている、と感じることが多い。

閉じているので、分かるひとには分かる、けれども、分からないひとには分からない。という状況で、ある意味では、健全だ。ひとに迷惑をかけない。

けれども、それぞれが閉じた状況では観客もそれぞれの趣味に閉じるので、客の増加は望めない。それぞれの言語で語っている限り、自分以外はすべて外人になってしまう。

外人にも通じるようにするにはどうすればいいか、ということで、出てくるのは、言語を解さなくても分かるものである審美性であったりする。美しさか崇高さ。「美しいー」と叫び、「こわー」と驚く。ここには観劇する足る実質があるように錯覚するなにかがある。

よくも悪くも、この審美性に向かいがちというのが、表現のひとつの傾向であろう。

なんだか、See Danceの趣旨から離れてしまいましたが、どうしょう、こりゃこりゃと思うのです。

いやいや、やっぱりこれは「ダンスでなにが見たいのか」ということに関わる話ですよね。

でも、
批評的である他に道はない気がするんですけれど、それはぼくがダンスをアートとして考えているからなんでしょうか。

あと、ダンスの難しさに、自分の身体からなかなか自由になれないということがあると思います。

絵画の道具が絵の具や絵筆やキャンバスだとすれば、ダンスの道具は身体。だとして、この身体は生きていているものです。そして、しばしば、コレオグラファー=ダンサーだったりして、この身体というものと距離がとれなかったり、縛られたりしがちです。

このことが、ダンス固有の価値でもあると思うんですけれど、同時に、ダンスが他の芸術表現のような自由さを獲得できないところでもあるように思います。

KATHYは、黒ストッキングを顔にかぶり、手にもストッキングをはいて、肌を消すことで、そうした難しさから脱することが出来ていると思うのですが、どうでしょうか。

それは間違いなくKATHYの発明でした。KATHYによって、踊る身体は、ある意味、身体でありつつ、絵の具や絵筆、キャンバスのような位置におかれうるものになりました。

個性を奪われ、ただの「踊る女の子」として踊る身体は、ここでいわば「レディメイド」化しました(デュシャンは、絵の具や絵筆やキャンバスは、工業製品であり、既製品(レディメイド)ではないか、と言っています)。

身体に対して、新しいアプローチをとることが出来るようになった。

身体に対して、個性とか、意志とか、「かわいい/かわいくない」の評価とか、抱かなくてすむようになった。(いかに、ぼくたちがそうした点に縛られているのかを意識させられることになった。)

このことは、なかなかに革命的だったと思います(先達として、ロイ・フラー、オスカーシュレンマー、アルヴィン・ニコライがいます。彼らの考えが一枚岩だとも、彼らとKATHYの狙いが同じとも思いませんが)。

無意識的にそう思い抱かれてしまうダンサー=「踊り子」という立場からダンサーを引きはがすことが出来た。

そもそも踊り子が生きていた、踊り子=人形(欲望の対象)という存在の仕方を、意識化することとなった。(この意識化を別の角度から積極的に展開しているのがオタク系文化だろうし、その成果として、先にあげた様な、AKB48といったアイドルの存在とダンスがある)

そして、「踊り子なるもの」について意識的に反省するダンス表現が可能になったわけです。
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by kmr-sato | 2011-02-20 10:21

KATHY (4)

KATHYのことを考えたい。

ただし、その前に、前々回のエントリーでぼくが日本のコンテンポラリーダンスの女子グループから受け取る「ある大枠」についてもう少し触れてみようと思う。

先日、kiiiiiiiiが復活した。

We're the BAD

懐かしいなあとうれしく思ったのは、彼女たちの(こういってよければ)ビッチ振りだ。ライブでは冒頭に、「きーーーー」と絶叫する。まだ全然あったまっていない観客は、ほぼ全員どきっとさせられる。この曲なんかでもよくあらわれているように、パンクというか、チアーというか、声の出し方が激しい。激しい女の子。最近見ないキャラクターだ。最近と言えば、

モーニング娘。 女と男のララバイゲーム

AKB 48ポニーテールとシュシュ

Perfume ねえ

少女時代 Gee

などを見れば一目瞭然のように、ポップな世界では基本的に女の子は、「男に従うやさしくかわいい子」であることがデフォルトになっている。「モテ志向」の女性と言えばいいか。もちろん、社会の大きな流れとしては、それがメインストリームとは言いがたい面があり、後で触れるように同性集団内部での相互評価に(とくに女性は)大きなウエイトがある社会なのかもしれない。

「モテ志向」の歌とかダンスとかがある一方で、kiiiiiiiの「悪さ」は、そうしたもののもつ通念のこわばりをもみほぐしてくれる気がして楽しい。

では、こうした見取り図をつくったうえでKATHYはどこに位置づけられることになるのだろう。

コンセプトから見るに、KATHYのうちにある女の子像というのは「KATHYという巨大な力に支配されている女の子三人」であり、支配者からの指令に応えようとしつつ、気づけばおかしなことになってしまう、そうした女性たちである。そこには、kiiiiiiiに見たのとは異なる「悪さ」がある。

「悪さ」と呼んでは見たが、本人たちが「悪さ」を性格としてもっていたり、「悪さ」を演じてみたりするというのではない。むしろ「気づいたら腐っていた」とかそういう「傷み」に近いものだ。そうした、従うものとの葛藤の中で「傷んで」ゆくさまが、KATHYを見ることの醍醐味だとぼくは思っている。

もう一度見てみましょう。

見ていると、先にあげた「大枠」のことが気になってくる。
KATHYは、こういう格好だけれど、美しい。それは、彼女たちが踊れるところに由来する。
踊れるということは、テクニックを習得しているということだ。「お稽古」の幼少時代を過ごしたということだ。

そのさまが、「従うものとの関係」と連動する。踊ることは、楽しいばかりじゃなくて、稽古に耐え求めに応えることでもあり、その息苦しさ、つらさ、つらさを通した喜びを含んでいる。

だから、せつない。

KATHYは、そうして「踊る女の子」を批評している。(踊る女の子は「従属する女性」全般のメタファーであり、自立した女性でも、過去に(とくに幼少期に)そうした女性であったことがあるならば、すべての女性がそうであったろう、すべての女性のある側面のメタファーとなりうる、もちろん、ジェンダーで簡単に分けるのも意味はなくて、「従属する女性」に自分を見たり、自分の生き方を振り返らされるすべての男性へのメッセージでもある)
そこに、圧倒的なオリジナリティと存在の魅力がある、と思う。

KATHYには、批評性がある。
それは、今日の芸術の必須条件。

当たり前のことだけれど、案外希有なものでもある、とくにダンスの分野では。

けれども、批評を通して状況の外部にたつのでもない。
「上から目線」というか、えらそーではない。

しばしばほとんど「突如」といった仕方で会場にあらわれ、場に介入して、「傷み」を散らして、陶酔感を残して、去って行く。

そのすべてがコンセプトであるけれど、説明をことらさら要しないのだ。

KATHYは、数少ない、ダンスにおけるコンセプチュアル・アートである。
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by kmr-sato | 2011-02-20 09:40

KATHY (3)

こんにちは。

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See Dance

なかなか集中することができず、滞ることしばしばですが、
今日も、ひとり、「ダンスを見ること」をめぐって書いてみたいと思います。

いま、昨日書いた部分をアップしました。下のエントリーを先にお読みの上、これからの文章におつきあいください。

いやー、リアルにWD見に行けなくなりそうです。せめて、室伏鴻のセクションだけでも、と思っていますが、……どうなるか分かりません。

……

そして、
ダンスについて書くブログなのですが、毎朝妻と「夫婦読書会」を行っておりまして、今日は「三日坊主」とは呼ばせない、なんと四日目を迎え、順調に続いています。そこで、出た話をまず書き散らしてもよいでしょうか。

今日は、p. 25-28(岩波文庫)を読んでいて、そこではこうしたことが論じられている。

「生活と社会とが我々各人から要求するところのものは、現在の境地の輪郭を識別するところの絶えず気を張っている注意であり、それはまた、我々をそれに適応させることができるようにする肉体と精神との一種の弾力である。緊張と弾力、それこそ生が発動させている互いに補足し合う二つの力である。」(pp. 25-26)

と、ベルクソンは「緊張と弾力tension and elasticity」という二つの力が発動した状態をひとは、社会や生活のなかで絶えず求められていると説く。つまり、社会においてひとは、いつも気を張って注意を配り、他人との接触に対して柔軟になっていなければならないというのである。他人との意志のかわし合い、そこでは単に習慣にまかせた一致ではなく、むしろ互いを意識し互いに適応しようと努力する必要がある。

「人と人との間の出来合いの一致だけでは社会にとって十分ではない。それは相互的適応の絶えざる努力を求めるであろう。だから性格なり精神なりないしは肉体なりのこわばりはすべて社会の懸念の種になる。」(p. 26)

例えば、入って一週間とたたないコンビニ店員が客に対応するさまというのは、うまく行って「出来合いの一致」といったものだろう。それだって、お客とのやりとりが出来ているといえば出来ている。けれども、社会が求めるのはそのレヴェルではない。「もてなし」というか、相手の多層的なニーズ(単純に欲しい品物が手に入るということのみならず、相手の自分に対する応対とか)に応えるには、先にみたように緊張感とかしなやかさ(弾力性)が必要だし、それが欠けていれば、それは「こわばり」として伝わる。ここに、ベルクソンは笑いの発生源を見る。そして、この発生源は単に笑いを喚起するというばかりではなく「社会の懸念」があらわれるポイントでもある。

つまり、しなやかさを求める社会においてこわばりを見せた人に、「社会の懸念」をともないながら起こすもの、一種の批判の機能(「笑いはそれ[こわばり]の懲罰なのである」とあります)としてあるのが、ベルクソンのいう笑いなのである。

と、前振りが長くなってしまいましたが、

昨日、

Togetter 吉田豪の唐沢俊一インタビューに関してのtwitterでのやりとり

をなんとなく読んでしまったのですが(ちなみに、ぼくはtwitterをほとんど読まないしちょっとしかツイートしない、オールドタイプでして、こうしたやりとりにあまり慣れていません)、こうしたやり取りは、「社会の懸念」というか(個人的かもしれない)「懸念」を、相手にぶつけて批判しているわけですけれど、その意味で、ベルクソンの「笑い」論をかすめていると思うのですけれど、結果的にはあまり笑えない(笑うということが起きていない)もののように思います。

相手の振る舞いを「こわばっている」と批判して笑い、しかし、批判して笑う当のひとの振る舞いも「こわばっている」ように見えるのです。「あいつ馬鹿」と笑うことは(そう発言した瞬間はその笑いは機能しているかに見えるのですけれど、次第に)自らの硬直性を際立たせることがあって、笑っているひとが笑われる状態へ陥ることってしばしばあると思うのです。問題は、そうして「笑われるA」→「Aを笑うB」→「笑われるB」→「Bを笑うC」……といったサイクルが起こることで、つまり、笑い=批判だとした場合、その批判は確かに一面の真実ではあるかもしれないけれど、別の側面から批判した等の人物の不十分さがあらわになるかもしれず、こうして、批判の祭りが発生して、やがて収束して行くわけです。このサイクルのうちにネットコミュニケーションの健全性をみることもできるでしょうし、まさにベルクソンのように「緊張と弾力性」を社会に発生させるものとして、これをとらえることも出来るかもしれません。

「(笑いは)社会的からだの表面に機械的こわばりとしてとどまっていそうなものをことごとくしなやかにするのだ」(p. 27)

あ、っとなんだか、説明しようとしていたことから脱線してしまいました。ぼくはでも、こうしたサイクルをあまり笑えないなあと思ったのです。先にあげたtwitterのやりとりは、その過程が進んで行くにつれて、そのなかでひとつの「こわばり」の消去が果たされたとはあまりいえなくて、かなり相互に傷をつけ合う闘いをして、端でひとがそれをみて「面白い」といったりするけれど、あまり笑えないなあ、と思うんです。そうそう、こう思うということです、「笑う振る舞いもそれ自体がこわばりのないものでないといけない」のではないか、と。

もちろんこれは、「笑い」論からみた、ということことなんですけれど。

なんとなく、さまざまなことが思い出され、自戒も込めて、そういったことを考えた次第です。

KATHYからずいぶん遠のいてしまった。


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by kmr-sato | 2011-02-19 14:03

KATHY (2)

去年のKATHYの活動のひとつが、これだった。
KATHYの魅力は(コンセプトやタスク的ルールなどはいまは置いておくとして)、
かわいさとグロテスクさ、陶酔と不安、歓喜と暴走というか、ふたつの相反するものが共存していて、その両方を味わっているうちにくらくらしてくるところにある、とぼくは思う。

そんなことを思っていると、次第に別の思いがわいてくる。
独特の少女性(ガーリー)。

少女性といえば、(あまり使われなくなった言葉だけれど)2000年代のコンテンポラリーダンスのなかでは、かなり重要なポイントだったといっていいだろう。

康本雅子みたいなソロを中心とした作家もそうだけれど、とくに女性だけのグループというが、さまざまな登場して、そこにはある大枠では似たところのあった気がするけれど、けれども、それぞれは個性も示していた。

そうした「少女のダンス」を牽引した存在の筆頭としてあげるべきは、

珍しいキノコ舞踊団

だろう。去年のこのCMはシンプルに彼女たちの女の子性をよく示している。

端的にいえば「明るく」て「前向き」で「ちょっとユニーク」で「かわいい」ものが好きな、どっちかというと「おしゃれ」な、あまり「モテ志向のない」女の子。同性の内部で盛上がっている感じ、別に男性を無視したり蔑視しているわけではないけれど。

ダンスというものは、気分の高揚が自発的な仕方で生まれていることが求められる。ただ歩くのではなくてスキップしている状態、それをダンスの萌芽とすれば、なぜスキップしてしまうのかという点が重要であり、この

歩く→スキップ

という移行は、ミュージカルにとって常に懸案事項となるところではあるのだけれど、ミュージカルに限らず、ダンスというジャンルにとって、かなり深い問題をはらんだことがらなのではないだろうか。

とすると、「明るく」て「前向き」な女の子というのは、とても大事なポイントではあろう。音楽でもかけるとうきうきしてきて踊ってしまう。そんな気分を生きている女の子。珍しいキノコ舞踊団とは、そうした面をもったグループだ、とぼくは思う。

あと、重要なのは、気分の高揚が「ダンス」というフォーマットにおさめられるだけの裕福な家庭に育った(ように見える)こと。バレエなり、モダンダンスなりを「お稽古」してきた女の子。良家の子女なのだ。この少女性は、日本のコンテンポラリーダンスにおける女性グループを考えるうえで、無視できない起点(先に述べた言い方を踏襲するならば「ある大枠」)であるように思う。

そして、例えば、ほうほう堂という存在がいて、矢内原さんの作品に「チョコレート」という女の子二人が踊る作品があり、pinkという女の子三人組がいたり、など、「女の子たちが踊る」というところにさまざまなアプローチがあった(し、もちろんいまも継続中である)。


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by kmr-sato | 2011-02-19 11:39

See Dance 九日目 KATHY(1)

おはようございます。
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さっき、第3回の夫婦読書会(いまのところ順調に毎朝開催中)でベルクソン『笑い』を読んでいたら、テレビで「ピタゴラスイッチ」が始まった。いまちょっと面白い事になってますね。「アルゴリリズムこうしん MAX」、スピードが1.5倍とか1.75倍とかになっているんです。おー、「こうしん」も進化しているんですね。スピードアップというアイディアは、「倍」って言い方もそうだけど、とても映像的ですよね。見てても、映像的にスピードアップしている気がする。その感じが面白い。

と。そして、今日のベルクソン

「けれどもおかしみの感を我々に与える弱点【vice: 悪癖】は、それとは逆に、我々が自分をその中に嵌め込む出来合いの枠(a ready-made frame into which we are to step)のように、外部から我々にもたらされる弱点だ。それは我々のしなやかさを我々から借りる代わりに、却って我々にそのこわばりを押しつける。我々がそれを複雑化させるのではい。逆にこのものが我々を単純化するのである。」(岩波文庫p. 23)

ここに出てくる「出来合い」と訳されている「ready-made」(これも原文の英語訳なんだけれど)が、デュシャンの「レディメイド」概念になにほどが影響を与えたのではないかという論文があって、それもあって、いま『笑い』を読んでいるのですが、今日出てきました。なかなかに興味深い。どじして笑われる、なんてのを例にしてみるならば、「歩いていて石につまづく」みたいな出来事を誰かが起こしてしまうとき人は笑い、笑われる人は「どじ」という悪癖のうちに自分が嵌め込まれてしまった結果笑われるというわけだ。「どじ」キャラは、「弱点vice」として、外部からやってくる。いまキャラと呼んだものをベルクソンは「出来合いの枠a ready-made frame」と表現しているのです。

ごにょごにょ。

では、See Danceはじめます。

KATHY

KATHY

KATHY


KATHYのコンセプトとか、それをタスクのアイディアとして受け止めてみることとか、拙書『未来のダンスを開発する フィジカル・アート・セオリー入門』のなかで書いたので、その点ははしょります。ぜひ、そちらをご一読ください。

まずは、見てみましょう。

KATHY's Summer Dream

ととと、11:00に妻を送り出してから、息子の世話から離れられない。

13:05にはNHKのお昼のトーク番組に前田司郎がゲストで驚いた!
14:00には、『QJ』の吉田豪が唐沢俊一にインタビューした件で、twitterがとんでもなく盛上がっているのを見て、ちょっと暗くなった。

なんてしている間に、時間がどんどんたってしまったので、とりあえずここでアップします。
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by kmr-sato | 2011-02-18 15:05

See Dance 八日目

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今日は朝から大学での仕事で、、、

明日KATHYをめぐってのダンスの話、はじめます。
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by kmr-sato | 2011-02-17 21:08

ルーブ・ゴールドバーグのことファイナル(2)

さっきはミュージック・ビデオをとりあげましたが、それに限らず、本当はもっといろいろとあげて考えてみたいと思っているのです。そこにあるダンス、を。

Camping trip Disney Classic Cartoon

M.I.A. Galang

「ゴダール・ソシアリスム」予告

Hitchcock Strangers on a Train opening

Jacques Tati Playtime Window Cleaning

でも、ちょっときりがないので、別の話をしましょう。

「チェイン・リアクション」というものは、別に現代美術じゃなくても、ダンスじゃなくても、さまざまなところに存在しているなにか、と見るべきかもしれません。

会話とか。

お笑いとか。

昨年末は、スリムクラブが大きな話題になりましたけれど、ぼけに対してどう突っ込むかというのもまた、リアクションの連鎖という問題としてとらえることが出来るのかもしれません。彼らは、極端に「スローな仕方で受け答えする」ということをやってみたわけですけれど、それを以前紹介したゴールドバーグの漫画に出てきた「子犬が成長してしっぽが伸びる」といった極端にスローなぼけとして理解してみたら、どうでしょうか。


さて、ようやく、最後の理由です。
(なぜひとはルーブ・ゴールドバーグ・マシーンを見たがるのか?という問いに暫定的に答える試みをしているのです。)

(3)世界を異質なるものの生命の中継として見たいから

これは、最近行ったこのイベントを通して考えていたことなんですけれど。

遠藤一郎 Drive Photo Music the Movie

このイベントで遠藤一郎は、二日かけて東京から別府まで(おそらく)「未来へ号」で旅した模様について、正面と両方の側面に設置したビデオカメラの映像を編集し、コバルト爆弾αΩの音を重ねて、さらに本人の生解説をつけて、観客に紹介したのだった。およそ1時間。彼の「Drive Photo Music」というシリーズ作品では、これまで「未来へ号」での旅を通して遠藤が感じてきたこと考えてきたことを、車窓から撮った写真の上にエンジンオイルで文字を書くという表現が用いられてきた。それも悪くはないのだけれど、今回の表現方法は彼の思いを表現するさしあたり最良のものになったと思わされた。すごくよかったのだ。あれは、いろいろなところで、今後、上演し続けてほしい。なんというか、一緒に「未来へ号」に乗っているような感覚になるのだ。そして、彼の語りは、基本的には、よいこともわるいこともすべて、この世界で起こっている事実であり、それはすべて未来へ向かっているのであり、とくに目に止まるのは、道路や橋などが人間のつながりたい欲望に端を発して作られたのであろうということで、すなわち、彼のまなざしを通して見えるのは、車窓から見えるさまざまなものたちは、人間がその欲望を爆発させて作った彫刻のようなものであって、自然と絡み合いながら、そうした巨大な彫刻のようなものが、見るものをアッパーにしたりダウナーにしたりしながら、存在しているという社会を彫刻としてみるような見方である(彼が具体的に「彫刻」という言葉を口にしたかは忘れてしまった。彼の語りを聞きながら、ぼくのなかで浮かんだイメージかもしれない)。

ようするに、彼のまなざしからすれば、世界は、その部分と部分がつながり合って存在している、いわば「ルーブ・ゴールドバーグ・マシーン」のようなものとして見えているのではないか、と思うのだ。彼は自分でペインティングするときには、細密な描写というものはあまりしないし、多くは文字ばかりであったり、抽象的な形象が伴うだけだったりするのだけれど、この映像は、彼のなかでもっともいわゆる絵画や彫刻という古典的な美術に近い作品のように思えた、しかし、もちろんそれは彼が描いたり彫ったりしているわではない、世界を作品と見たててそれを撮影して、それをもって自分の作品としているという次第。

世界を「ルーブ・ゴールドバーグ・マシーン」として見る。そんな視点、昨今、美術批評の世界でやたらと話題のRelational Aesthetics(関係の美学、つながりの美学)にも似ているけれども、ぼくはともかく、こうした点について、ぼくは遠藤にいつも教えられている気がしている。

あー、なんだか、どんどん「いわゆるダンス」から離れているように見えていると思いますが、大丈夫ですかー

ついてきてもらえてますかー

でも、

別府温泉の町中で乱暴な蒸気を吹き出しまくっているさまとか、横浜ベイブリッジの下にあるジャンクションへ向かうぐるぐると急カーブを描いてゆく道とか、さまざまなものがぼくにとっては、興味深い運動ではあるわけで、そうした表層的なところをとってみても、ダンスと別物と思わなくてもいいと思うんです。

あと、最後に、泉太郎の方法のなかにも多分に「ルーブ」的なところはあると思います。ぼくが巻き込まれた(?)「さまよう三つ子の魂」の上演なんてまさにそうでしょう?あれは、ぼくと泉が、ライブハウスの一部屋の端と端にいてメールで会話をするというもので、それぞれのメールの文面はスクリーンにディスプレイされているのだけれど、そのスクリーンには細工がしてあって、しるしがあちこちにつけられ、そのしるしのところになにかしら文字があたると(メールはひらがなだけ用いるというルールがあった)、自分の割り当てられた文字が出た観客は、ホラーっぽい照明のもとで写真撮影され、その写真がすぐさまスクリーンに映される、なんて「チェイン・リアクション」が仕掛けられていた。さらに、スクリーンには、ギタリストとピアニストへの指示もされるようになっていて、また文字と鍵盤やフレットが対応していて、ある文字がくるとある音を弾くといった仕方で「演奏」が同時に行われていたのです。さらに、ぼくはそんなのなかったんだけれど、泉は同じような仕掛けで、音を出したりいろいろしていたそうです(ぼくは泉の反対側で黙々と泉のメールに返信していたので、その詳細がまったくわからないままです)。

ある観客は、パフォーマンス中ずっとぼくの挙動を見ていたと話してくれました。なるほど、メールに返信するその身体がなにほどかのスリルを見る者に(ぼくみたいな身体であったとしても)与えることが出来ていたのかもしれません。どんなレスをするのか、そのレスをするときの身体はどんな状態になるのか、そうした、ある環境におかれた人間の姿を観察する喜びが、観客にはあったはずです。そうした人間がその場で即興的に作り上げる彫刻がそれ自体、あのときの作品だったわけです。
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by kmr-sato | 2011-02-16 13:46


ダンスについて書きます


by kmr-sato

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