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なぜひとはルーブ・ゴールドバーグ・マシーンを見たがるのか?(予告)

ダンスを見る喜びについて、ぶつぶつつぶやくイベントSee Dance開催中です!

ところで、ぼくは木村覚です。(知らないひともいかるな、と)

よろしく!(今日は昼ロロ見てましたよ。)

これから、番外編で、

なぜひとつはルーブ・ゴールドバーグ・マシーンを見たがるのか?

について、考えてみようかと思っています。

直接ダンスとは関係なくなっているように思われるかもしれませんが、そんなことはありませんよ、多分。

「チェイン・リアクション」はモンタージュ映画なのではないか?とか、考え中。

最終的に、遠藤一郎のDrive Photo Music the Movieのことについて書く、なんてことを構想してます。

遠藤?やっぱりダンスじゃないじゃん……?

いやいや、そんなことありませんよ、多分。

ね。

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また明日。
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by kmr-sato | 2011-02-13 22:44

身体表現サークル(6) Rube Goldberg Deviceと(2)

おはようございます。

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朝焼けがまぶしいです。

ムバラクは辞任を表明しました。前途多難でしょうが。世界は刻一刻変化しています。

さて、前回は、身体表現サークルをルーブ・ゴールドバーグ・マシーンとして見るということをしてみました。これからその後半を書いてみよう思います。

ちなみに「Chain Reaction」展のカタログには、他にも

Tim Hawkinson

Steven Brower

Sam Easterson

Roman de Salvo

らが紹介されていました。

こうした「Chain Reaction」系のアーティストたちの「父」のひとり、マルセル・デュシャン。

e0233387_7121249.jpgおそらく、デュシャンの機械へのアプローチとゴールドバーグを重ねつつ、デュシャンの「レディメイド」概念をさらにそこに加えてみることで、いろいろと明らかになることは多いだろう。実際、Michael Northの「Machine-Age Comedy」を読むと、デュシャンとゴールドバーグの関係のみならず、この「レディメイド」概念が加えて論じられており、しかも「レディメイド」概念は、ベルクソンの「笑い」から影響を受けているのではないかという推測がなされている。

このあたりは、みっちりと興味深いことがらが詰まっていますが、いずれ考えることにして、この著作のなかでNorthがルーブ・ゴールドバーグ・マシーンについて、こうした特徴を指摘している点に注目してみることにしましょう。

「注目すべきことに、典型的なルーブ・ゴールドバーグ装置は、電気なしの世界に存在している。動機づけとなる力は、風や水や重力といった自然なのである。最初に「発明」のひとつを駆動させる動機づけの力は、しばしば人間ないし動物の反応から有機的に生成される。それはたいてい痛みであり、漫画の世界にふさわしい、しかしほとんどの場合、恐怖、怒り、嫉妬あるいは混乱としての反応なのである。Remarkably, the standard Rube Goldberg device inhabits a world without electricity, the motive power sources are natural: wind, water, or gravity. Frequently, the motive power initially driving one of the “invention” is organically generated from some human or animal reaction, usually pain, as is perhaps appropriate in the world cartoons, but almost as frequently fright, anger, jealousy, or even confusion. 」(Michael North, Machine-Age Comedy, p. 90)

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これは、なかなか興味深いポイントだと思う。
というのも、いわゆる「ルーブ・ゴールドバーグ・マシーン」といわれているものは、その多くが、この点において、ゴールドバーグ的ではないからだ。それにもかかわらず、ゴールドバーグの漫画の魅力は、ほぼそこに集約されているように思われる。

ゴールドバーグの漫画において「動機づけとなる力」はたいてい自然であり、また人間や動物の反応である。一方「マシーン」の多くは、擬人化されている場合、ひとや動物に模している場合があるとはいえ、ひとや動物の力を漫画にあるようにそのまま持ち込むことは、ほぼ、ない。

デュシャンの「大ガラス」もその点では同じだ。けれども注目したいのは、「独身者たち」の機械がどんな力で働くことになっているのかということ。近くにあった本を参照すると、「独身者たち」の一部である「九つの雄の鋳型」と「チョコレート粉砕器」についてこうある。

「これら九つの鋳型のなかにはガスがつめられていて、それが上端の「毛細管」を通って、中央の七つの三角形の重なったような部分である「濾過器」へ運ばれるという。このガスの移動が独身者たちの欲望の高揚を物語るが、ガスは最後には「チョコレート粉砕器」の回転へと収斂し、つまりは独身者の自慰に終わるということのようだが、これもひとつの読みに過ぎない。」(『デュシャン 新潮美術文庫49』p. 60)

なるほど、ゴールドバーグの漫画に似て「大ガラス」では、人間の身体的なリアクションが機械を動かす仕組みになっているわけだ。

ここに見られるのは、機械に組み込まれる人間、機械と見なされる人間である。人間=機械。しかし、この機械人間は、機械化された人間というよりは、欲望を抱えている、大いに人間的な存在である。

機械として仕組みのなかに組み込まれているからこそ、人間としての本性があらわになっている、というのが、解くべき特徴なのかもしれない。

そして、身体表現サークルとは、まさにそうした特徴をそなえた人間=機械なのだと、考えてみたらどうだろうか。

と、もろもろ考えた後で、あらためて、見てみましょう。

身体表現サークル 02/02 吾妻橋ダンスクロッシング2004年7月公演

「花嫁」が「独身者たち」の欲望を刺激してます(笑 ほんとか)

ところで、

なぜぼくたちは、ルーブ・ゴールドバーグ・マシーン的「チェイン・リアクション」が好きなのか、この問いが解かれなければならないだろう。
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by kmr-sato | 2011-02-13 09:18

身体表現サークル(5) Rube Goldberg Deviceと(1)

いまNHK BS 2でAR三兄弟の番組、見てました。そうとう近い未来に、アート分野にこれ関連の出来事がぼこぼこ起こるのでしょうね。

いま、それで、妻が出来立てのスモークチーズを持ってきてくれたので、チーズだけ食べてはチーズに悪いと思い、ビール(発泡酒)を飲み始めました。2/12の14:50。雪はやみましたが、外は寒そうです。家でダンスのこと考えてましょう。

今回のSee Dance、ぼくのなかでひとつ、縛りを作っています。それは「批判を書かない」ということです。毎年この時期、批判の文章をブログに書き、そこであまり理解のない再批判に合うということを繰り返してきたので、ここでは「批判を書かない」ことを誓います。「批判」と書きましたが、ぼくとしては愛ある……、いや、この際いいわけもしないことにします。

楽しいイベントにしたいのです。
ダンスを愛する気持ちを、静かに爆発させたいのです。
「見るダンス」もあるよ、とちょっとだけいいたいのです。港町に向けて。

……

さて、身体表現サークルについて、これまで書いてきましたが、彼らを考えるのに、もうひとつ別の視点を彼らに差し向けてみたいと思います。そのためにももう一度ご覧ください。

身体表現サークル 01/02 吾妻橋ダンスクロッシング2004年7月公演

(こんなに身体表現サークルを見ること最近なかったですよね。このブログイベントに何人つきあってくださっているのか分かりませんが、10人でもその気になってくれてYou Tube見ながらダンスのこと考えてくれていたら、もうそれでぼくは十分幸福です。できたら「身体表現サークルはじめて知ったよ」なんていう若い人に見てほしい!がんばれダンス!)

見てもらいました?これも、なかなかのものです。
で、こうした三人の動き、とくに冒頭のびんたがびんたをよぶ、数珠つなぎ状態、身体表現サークルのアイディアの魅力のひとつは、ここにあると思います(例えば、こうした点は、contact Gonzoにはやや希薄です)。

そんで、こうした動きをぼくは、「ピタゴラスイッチのあの装置みたいな」と適当に呼んでいたのですが、正式名称とでもいうべき呼び名があったんですね。

Rube Goldberg Machine

正月の頃、ある研究書(Machine-Age Comedy)を読んでいたら、デュシャンの機械的な作品性を論じるなかで、このルーブ・ゴールドバーグ・マシンのことが言及されていたんですね。これで、ぼくは、この漫画家の存在を初めて知ったのです。

どうも、ダダが彼に興味をもっていたらしいとか、現代美術にある程度の影響を与えた存在らしく、また先述のように、デュシャンの「大ガラス」を解く際にその関連を推測されていたりします。例えば、そうした美術との関連でいうと、一番目立っているのは、2001年にWilliam Collage Museum od Artで行われた「Chain Reaction」展。これは、ゴールドバーグを大々的にフィーチャーしつつ、ルーブ・ゴールドバーグ・マシン(デヴァイス)的作品を作る作家たちを集め、展示する展覧会でした。
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しばらく、ゴールドバーグと「チェイン・リアクション」展の紹介をしてから、身体表現サークルに戻りたいのですが。

ルーブ・ゴールドバーグの漫画は、例えばこんな「チェイン・リアクション」を描いています。
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子犬(A)が成長するにつれて、子犬のしっぽ(B)は伸びて、岩(C)を低い位置にしていく、その岩は、クモ(D)をつぶしてしまう。鳥(E)は不幸なクモのために涙を流し、涙(F)がバケツ(G)をいっぱいにする。バケツは糸(H)を引っ張り、ガラス製のカバー(I)をもち上げ、リンブルガーチーズ(J)があらわになる。亀(K)が、扇ごうとしてネクタイの端(L)をつかみ、そこをあらゆる方向に揺らす。そこが結び目のできるようにこんがらがると、ネクタイは適当な感じに見える。もしこの仕事が気に入らないなら、放り投げて、既製品のネクタイを使いなさい。


Rube Goldberg Now you know how to tie a full-dress tie, ca. 1918


なるほど、こうした「連鎖反応」を仕掛けとして考えて、その荒唐無稽なさまを読み手に笑いにして提供するというのが、ゴールドバーグの漫画だということができるでしょう。

そうして、こうした機械的な装置への信頼ともからかいともとれる思いこそが、当時の機械時代の感性のひとつだった、ということもいえるでしょう。そこに、今日の現代美術の基礎を作ったマルセル・デュシャンもいたわけです(ティンゲリーももちろん「父」の一人でしょう)。

そして、こうした「連鎖反応」する機械を現代美術の文脈で制作する作家たちというのが、今日、数多く活躍しています。

代表的なのは、やはり、Fischli and Weiss でしょうか。

The Way Things Go

「Chain Reaction」展では、彼らを「兄」とするようなさまざまな「弟」たちのことが紹介されています。

Arthur Ganson Margot’s Cat Machine with Abandoned Doll

Martin Kersels Tumble Room 

Alan Rath Ambulatory Sculpture and Dancing Robot

など。
ぼくは知らない作家が多かったので、勉強になったし、テクノロジーとアートの融合という点で、このあたりの作家たちをひとつの達成とする見方があるのだろうということは分かりました。が、一方で、これだったら、日本の作家たちだって負けてないんじゃない?とも思いました。

泉太郎「こねる」展

梅田哲也「や」

など。

長くなったので、続きはあらためて。
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by kmr-sato | 2011-02-12 15:48

身体表現サークル(4) contact Gonzoと

上のスキン画像変更しました。
あとで書こうと思っているRube Goldbergの漫画です。

見ているうちに、大事なグループを思い出しました(そう、このイベント「See Dance」の大事なポイントは、まさしく、「思い出すこと」なのです)。

contact Gonzo

いや、彼らを忘れていたというよりは、彼らと身体表現サークルを結びつける自分の中にあったはずの回路を思い出しました。身体表現サークルが活動を消極化してゆくのとちょうど反比例するように、contact Gonzoは存在感を強めていきました。いまや、日本のダンスを語るのに、なくてはならない存在。見てみましょう。

インターナショナル・ショーケース2010 contact Gonzo コンタクト・ゴンゾ

6:20登山用のワイヤーが出てくるあたりからのシーン最高(とくに7:01前後)ですが、ちょっと置いておいて、
4:40あたりからのビンタし合いを、身体表現サークルのそれと比べてみるといいかもしれない。

と、いうことで、
身体表現サークル 01/02 吾妻橋ダンスクロッシング2004年7月公演を見てみましょう。

ちょっと比較してみます、

   cG               身体
激しいコンタクト         激しくはないコンタクト
条件反射的リアクション      条件反射的リアクション
エモーショナル          オートマチック
即興               振り付け(タスク・ルール)

こうすると対立的に見えるかもしれないけれど、そうではなくて、むしろ「接触」=コンタクトのもつレンジとして見た方がいいのではないでしょうか。

なんとなく、今日の「エモーショナルなもの」の人気とcontact Gonzoの人気がつながっているような気もするし、対して身体表現サークルのユーモラス振る舞いが「軟弱」に見えてくる、それゆえに、いけてなく思う向きもあるかもしれない。けれども、必ずしも、そんな風に軍配を決めなくてもいいのではないかと思います。どちらもに、可能性があるはず。

こうして見てみると、日本のダンス、バラエティに富んでいるじゃないか、と思えてきます。
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by kmr-sato | 2011-02-12 12:20

雪だ 今日も書きます。三日目?

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by kmr-sato | 2011-02-12 09:46

身体表現サークル(3) ポスト・モダンダンスと

いま、息子が寝た。寒いので、あまり使ってこなかったダウンベストを出してきて着せたら、チャックを閉めていく間に寝てしまった。ようやく自分の時間ができた。さっきまで、R-1見てました。あまりに、貧乏ネタが多いのと、あるあるネタとかショートネタとかが全然受けなくなってたのが印象的。お笑いも、マイナーなジャンルになったみたいだ。すべてはマイナー。妻は、最近趣味にしているスモークの準備している。明日は、サーモンと砂肝のスモークが食べられるみたい。

はい、再度、

身体表現サークルの「広島回転人間」見てみましょう。

今日の映像ではないですよ、雪降ってますが。「広島回転人間」は、彼らが2006年にトヨタコレオグラフィー・アワードのファイナルに出たときの作品。このヴァージョンは、そのときのとかなり違いますが、エッセンスは残っている。

どうですかね。
いま見ても、ポップ&キュートだと、思うのですが。

「裸でふんどし」という外見は、たんなる「色物」と思われがち、当時もそうだった。けれども、この動きの質は、(彼らがそう意識して行っていたかはともかく)いわゆるダンス的ではないかもしれないけれど、でも、ある意味で、それでもやはりダンス的だ。例えば、

Yvonne Rainer Ros Indexical 2007

の「もたもた」感と似ている。イヴォンヌ・レイナーは、若い頃作ったこの作品「トリオA」を代表作とする、ポスト・モダンダンスと後でくくられることになるひとたちのなかの一人。ジャドソン・ダンス・シアターの主要メンバーだった。

この辺り、細かくは、拙著『未来のダンスを開発する フィジカル・アート・セオリー入門』をご参照願いたいところです。いまは拙著からやや自由になって、映像から感じられることをつらつらと書いてみます。

ぼくは、こうした動きをジャドソン・ダンス・シアター活動当時のタームに倣って「タスク」と呼ぶことにした。自分から自発的に動いている(かにみせる)わけでなく、むしろ動かされている状態をあらわにしながら動くこと。

なにかを「見せる」といった能動的な表現の要素を縮小させることで、受動的な「動かされている」という要素を拡大する。すると、身体の動きは、動かされている身体と身体を動かそうとするルールとが分離した状態で見えてくる。隠れていた主従の関係があらわにされる。そこに、このダンスの面白さがある、とぼくは思っている。

「やろうとしてること」と「やれていること」が離れている事態というのは、普通、へたな踊りといわれる。けれども、それは「やろうとしていること」が高度な場合だ。そして、高度だと「できる」ことそれ自体に価値が生まれたりする(手段の目的化)。高い跳躍ができる、とか。でも、それは、先述したように、エリート身体を生むことしかない。高度でなくていい。ただ、ルールとそれに従っている身体の状態とがあらわれていること。透明化されていること。美しいなにかで覆い隠す必要は、かならずしもないのだ。

Trisha Brown Spanish Dance

このトリシャのダンスは、動きはミニマルなんだけれど、腰を使ってお尻が揺れるキュートさもあって、とても魅力的。

こういうダンスが見たいな!誰かこういうダンス作らないかな!

と、身体表現サークルをポスト・モダンダンスと関連づけたり、アルゴリズム体操と結びつけたりは、これまでぼくがよく講義などでしてきたこと。あらためて,見てみよう。

アルゴリズム体操

この体操は、人間の機械化としては面白いところがある。けど、身体表現サークルの方がデリケートにできているのはいうまでもない。音楽の有無は大きい気がする。それにしても、「裸」で「接触」するって、見る側にもダイレクトにくるところがあるよなー。あと、こういうと比べても、似ているけれど、やっぱり大きく異なるところがある。

アルゴリズム体操 フィリピンの刑務所編

まさにマスゲーム的な状況。タスクに従うダンサーは、どこか囚人みたいだ。それのそのまんまヴァージョン。

こうやって、ざーっとこの傾向のダンスを見てみると、こういうダンスが存在しているということは確認できますが、いま日本にこういうダンスがあるか、際立った作品はあるか、といえば、どうでしょうか。例えば、これを見てみましょう。

捩子ぴじん syzygy short ver.

もう上演して二年近くたつのですが、あらためて見ても、面白いよなー。

この作品の上演にはぼくも関わったので、なんとなく手前味噌なのですが、そんなことで自重するのはよそう。これは、いまの日本における、クレイジーで、クリエイティヴな、ひとつの達成です。捩子ぴじん、すごいじゃないか!これを数年続けたら、なにか「明確なもの」が出てくる気がする。んー。

ここで見てきたのと比べると「sygyzy」のポイントは、スピードだ。
かなりヘヴィなタスクが、するするとどんどん展開していく。そのSFチックな、映画的な世界が、舞台上に広がっているという、目指すところがなかなか恐ろしい作品。

あと、重要なのは、「チェイン・リアクション」が起きていること。この点については、次に書きます。

「sygyzy」プロジェクトが、ここで止まっているのは、とても惜しい。小さなトライアルでもいいので、ここを起点にさらなる作品作りを進めていてくれたらいいのに、と思って、二年が経とうとしている。

(以上の投稿、書き始めたのは昨日の九時くらい、最終的にアップしたのは今日の8時半になりました。)
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by kmr-sato | 2011-02-12 08:27

身体表現サークル(2)

いま(2/11の14:07)息子(一才と20日)が背中で寝ている。妻は、昼前にバイトに出た。いままでは自由な時間だった部分が、かなりの割合で息子との時間になっている。うれしいが、時間的な余裕がなくなった。こんな感じの日々が1年続いた。

これが理由で、ダンスのことをブログなどで書かなくなったと思われるのはくやしいけれど、事実の面はある。もちろん、理由は育児だけじゃない。

朝、奈良美智の『NARA NOTE』を読んでいた。さっき、息子をおぶってからも少し読んだ。なんだか、奈良さんの言葉は、忘れていた部分を刺激してくる。

「自分の美術をもっともらしい思想と結びつけたりなんかしない」

なんて言葉が出てくる。作家にはそう思っていてほしい。どちらかといえば、ぼくの仕事というのは、美術(あるいはダンス、演劇)を思想と結びつける仕事かもしれない。作家の活動を歴史に照らして意義づける、というか。でも、簡単に意義づけられてたまるものかと思っているのも、よくわかっているつもり。あるいは、意義づけてほしいなんて、思わないでくれ、とさえ思う。そんなときのぼくは、ただ美術がダンスが好きなひとでしかない。そんなところにいる自分の存在を忘れたくないものだ。

身体表現サークルは、なんとなく見ていて切ない気持ちにさせられるグループだ。

子供の頃のときに感じ気持ちが、見ているうちに、じわじわとよみがえってくる。

お遊戯とかで、おんなのこと手をつないだときのこととか。やたらからだをさわってくる同性の男のこのこととか。

そうしたことは、ことさら思い起こさせようとしても、うまくいかない。マームとジプシーは「記憶」の演劇。だけれども、彼らのすごいのは、演劇内的記憶とでもいうべきものを作り上げるところにある。いくつかのささいなシーンを何度も何度もリプレイする、そうすることで、そのシーンを観客にとって、あたかも自分が何度も思い出してきた個人的な記憶のように、切実な記憶にしてしまう。けれども、あくまでも、その記憶は演劇内にて成立した記憶であって、マームとジプシーのすごさは、そうして記憶という装置それ自体を浮き彫りにするところにある、と僕は思っている。だから、テーマは「記憶とは何か」で「記憶とは何かを解析する演劇の可能性」こそ彼らの追求するところなのだろう。

と、長くなったが、記憶の作家にこうしたひとがいて、それとまた拮抗してもいい存在として身体表現サークルは、いるのかもしれない、なんて思う。

「接触」

例えば、矢内原美邦(Nibrollほか)ならば、体を踏んづけるとか跨ぐとか、そうした場面をつくることで、似たことをしてきたのかもしれない。(ほんとうに、子供は平気でひとの体を踏んづけたりするものだ。最近知った。)けれども、それは「接触」そのものというよりも「接触の振り付け」として展開される。見ていて「はっ」とするのだけれど、とはいえ、「痛そうだな」とか「ああこんな痛み覚えている」というリアルに身体にくる感覚は、身体表現サークルにくらべ希薄だ。すでに作家の手のうちにあるストーリーをこちらが推測し探り当て、そのストーリー越しに振る舞いを味わうというのが、矢内原的なやり方だとすると、身体表現サークルは、そうしたストーリーが希薄というべきかもしれない。あるいは、あまりに平凡で、作家性が薄い、ということかもしれない。

と、ここで、彼らの代表作を見てみよう。

身体表現サークル 「hiroshima rolling man」
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by kmr-sato | 2011-02-11 14:26

身体表現サークル(1)

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昨日、遠藤一郎の作品「せーの!」が届いた。これは、写真の作品で、昨年の「わくわく京都」で制作されたものだ。なんどかブログで書いたようにも思うのだけれど、「せーの!」には、エピソードがある。去年の夏、遠藤君やislandのみなさんがぼくの家に遊びにきたときに、確かその日に見に行った川戸由紀さんの作品の話をぼくがしたのだった。川戸さんは「いくよ」「いくぞ」という言葉が盛られた作品を作っていて、遠藤君に似ているということとか、そしたら遠藤君が「字の雰囲気が自分のとそっくりだ」といってくれたりとか、盛り上がった。そして、川戸さんの刺繍の中に出てくる「せーの」という言葉の話にもなった。
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「せーの」って考えてみたら、面白い言葉だ。

「息を合わせる」ときの言葉。

川戸さんは、いわゆる自閉症のひとで、NHKの「おかあさんといっしょ」とか、ディズニーランドのショーとかが大好き。工房にお邪魔すると、作品制作している最中、自分の好きな歌とか台詞のフレーズをラジカセで何度もリプレイさせて、盛り上がっている。そんなフレーズのひとつだったに違いない「せーの」。

ぼくはなんだか、この「せーの」にダンスを感じる。そのかけ声が届く人たちが一斉に息を合わせ、ほんのすぐ先の未来に向けて、気持ちをひとつにする、そのかけ声。その瞬間。なんだか、わくわくする。遠藤の作品も川戸の作品も、ぼくにとっては、その「わくわく」が純粋パッケージ化されたものだ。

気持ちをひとつにするなんて、なんだか北朝鮮お得意のマスゲーム?ナチスの体操?みたいでこわい!という解釈もあるかもしれない。そうそれはそうなのだ。ダンスは、その意味においてこわいものなのだ。これは、間違いない。恐ろしいくらい、集団をひとつにしていくものだ。盆踊りだって、、ライブで同じフリを踊ることだって、熱狂的にひとを統制してゆく機能があるのは事実だ。端から見たら、内側に入れない疎外感から、あいつらなんなの、といいたくなる。

ダンスは、でも、そうした統制を遊ぶゲームなのではないか。

V系のライブ会場にいるひとたち全員が「死ねー!」といわれたら、一斉に死ぬかといえばそんなことはないだろう(その極端な誘いまで「遊び」として楽しんで、結果、逝ってしまうことがないとは限らないけれど)。

そして「せーの」は案外難しい。気持ちをひとつにしようなんて思う、そんな条件を設定してくれる場なんてものは、そんなにない。ほとんどない。「勝ち組」「売れてる」なんて、盛り上がっている場みたいなものが強引に設定されて、「世の中そうなっているなら、そういうものなのね、じゃあ、そういうことで」って感じで、「気持ちがのる」というよりは「空気に合わせる」ということはそれなりにある。ぼくはこれを秋元康戦略と心密かに呼んでいますが、そうしたシステムばかりがぼくたちを支配しているとすれば、実は「せーの」と気持ちが合うことは、今生きていてあまりないこと、なのかもしれない。

むしろバラバラだ。

このバラバラをある程度積極的に活かしつつ、「せーの」へと誘うこと、そしてその「せーの」が遊びの状態のままにしておくこと。

ぼくが「ダンス」に求めているのは、そんなことなのかもしれない。


と、いうことで、イントロはこのくらいにして、
あらためて身体表現サークルを見てみようと思います。

身体表現サークル 横浜トリエンナーレでのパフォーマンス 2005

できたら、映像見ながら読んでくださいね。
ぼくもこの上演見ていたと思うのですが(別の日だったかもしれません、けど)、今見ても、インパクトあります。いや、今見た方が、面白いのかもしれない、とさえ思います。
まず、お尻のインパクトがすごいです。
「ふんどし姿で人前に出てくる若者」というだけでそうとう「おかしい」感じがしました。衣服をまとって気取っていても、脱げばみんなやわらかい・脆弱な身体=機械を動かして生きているわけだ、という風に見える。女子はさすがに露出は少ないけれど、ふんどしは締めていて、一様な存在になっている。

この気取らない(あまり、フィジカル的にかっこよくない)身体が表現の空間にぼてっと置かれていること、このことの可能性が、当時、身体表現サークルの周りで輝いていました。いまみても、この脱力感いいですよね。「エリート身体」への批判というのは、当時、桜井圭介さんともよく話題にした点ですが、ようは「エリート身体」は、その身体から「エリート性」ばかりが目立ってしまい表現の次元が見えてこないところに問題があります。いや、エリート身体だからこそ可能になる表現があるのは事実ですが(チェルフィッチュの役者たちはその典型例でしょう)、エリート身体であれば表現的であるわけではないし、エリート身体はなにかの表現のための手段であるはずが、それ自体が目的に見えてしまうような事態にしばしば遭遇してしまう現状があります。「こんなことができるんだぜ!」という振る舞い。アスリート的というか、こうした傾向というのもダンスにあっていいのかもしれませんが、そこで観客ができることといえば、「すごいですねー」と感心することくらいでしょう。「感心」させることが目的ならばわかるのですが、しかし、それは芸術表現じゃない。

この気取らない身体が表現の空間に置かれるメリットは、「身体のマテリアルとしての性格」をシンプルに観客が味わえる、という点にあるとぼくは思っています。「身体ってこんなことになっちゃうんだー」ということ、その発見それ自体が、見るべきものになる、ということです。

それは、身体の機械化といってもいいでしょう。

身体表現サークルを見ていて失笑せずにはいられない(ですよね)。それは、まさに、身体が機械的性格を帯びてしまっているから、なのではないでしょうか。

ふんどしを巻いたほっぺ叩きマシーンと化したひとたち。

そのあっさりと「機械化」してしまったひとの群れがおかしい。

淡々としていればいるほど、その機械性が際立つし、そこに誘われたこと、誘惑性が際立つ。

なぜこのひとたちは、こんなになってしまったのか……。

そう思いつつ、もちろん、それがひとつのゲームなのだということも、十分意識しつつ、それでも、そこで起きている「人間の機械化」をくすくすと笑いながら見つめずにはおれない。

でも、これ「せーの」じゃ、ないですね。

「せーの」で想像するのは、同じ動作を一斉にすること。でも、身体表現サークルのこの作品は、ダンサー一人一人は、すべてのダンサーと同じこと「隣の人からほっぺを叩かれ、その勢いで、隣の人のほっぺを叩く」ということを、連鎖反応的に、つまり、時間をずらして行うわけだ。待って、叩かれるダンサーは、孤独にも見える。けれども、叩いて叩かれての状態には、接触の快楽も伴っている気がする。どさくさにまぎれて、他人に触れちゃっている(他人を叩いちゃっている)。まあ、ひとは叩いちゃいけないですよね。でも、「そういうルールなんで」ということで、叩いてしまう。そうしたところも、この作品の面白さだろう。

ルールが遂行者に自由を与える

とでもいえるだろうか。
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by kmr-sato | 2011-02-11 10:35

See Dance

突然ですが、

今日から、ひとりでイベント開催します。「イベント」といっても、たいしたことありません、無料です、ネット上です。久しぶりに、ダンスのことをこのブログに書き続けてみようかと思っています。集中的に、10日間くらい。

昨年は、「ダンスに未来はあるのか……」と思うこともあった。けれども、今年になって、なんとなくぼくのなかで「ダンス」への愛が高まってきてるんです。なぜだろう、よくわからないのですけれど、そうなんす。

最近思っているのは、劇場で出会うダンスには、苦いというか寂しいというか、そんな思いを持つことが少なくないのだけれど、ぼくの好きなダンスはやっぱりぼくにとって好きなダンスであることに変わりはないということ。嫌いになったわけじゃない。「ダンスは終わった」みたいな言い方、時々耳にするんだけれど、そういう言葉を聞くたびに、「そうかな?」と違和感をもっていたのは事実。じゃあ誰がいるってわけ?と聞かれると、「んー」となってしまう。それもまた事実。

で、あらためて、振り返ってみた。そして、気づいた。ぼくが未来を感じていたダンスの作家たちが、いまなんとなく元気がなかったり、ぼくが見る機会を逸していたり、活躍が日本ではなくなっていたりしていたのだ、ということ。あーっそうか。見たいダンスを見ていなかっただけじゃないか!そう、気づいた次第なわけです。忘れていたわけです。なんということでしょう。忘れていました!すいませんでした。よかった!思い出せた!

その見たいダンスとは、

例えば、
身体表現サークル
であり
KATHY
であり
室伏鴻、
なのであります。

(といったとたんに、大橋は?手塚は?神村は?黒沢は?……と聞かれるかもしれないけれど、それはまあそう、でも、ちょっといまのところ置いておいて。)

あー、ダンスの終焉を語る前に(そんな高らかに語られているわけじゃないと思うんだけどさ、なんとなく、雰囲気あんまりよくないじゃないですか、観客も新陳代謝すすんでいないじゃないですか、そういううみがたまったような状態に対して)、ダンスにはなにが可能か、ダンスの魅力というのはいったいなんなのか、もう一度、考えてみたい、思い出してみたい、信じてみたい、という思いに駆られております。

と、こーゆー感じで、このブログ、今日からだらだらした文章でいきますから、ご容赦くださいねー。そんな、ぼくの「ダンスの未来」を、あーだこーだいいながら、忘れていたダンスたちを振り返りつつ、自分で「開発」してみたいと思っております。孤軍でちょっと奮闘できたら。(大学の仕事は、おおよそ今年度分は片付きつつありますが、それ以外にも、あれこれこれあれいろいろと攻めてくるでしょう、それでも、1日1回の更新は絶対ということで、やってみようか、と思っています。10日間くらい?)

ということで、基本的には、この三者を軸にダンスをめぐっていろんなこと書いてみようかと思っているんですが、三者以外にも、反射的に思い出した作家たち、作品たちについても、どんどん言及していきたいと思います。

あとねー、テーマの一つとしては、演劇いまとても元気ですよね。この元気な日本演劇の勢いに便乗したい、というか、ちゃんと拮抗するものとしてダンスがありうるとしたら、ダンスにどんなアイディアが必要なのかということを、自分なりにねー、考えてみたいのです。先日のチェルフィッチュ、先日のマームとジプシー、明日いく予定のロロなど、本当に、すごいことになってます、演劇界。面白すぎます。

まあ、踊れない批評家が書くわけですから、自ずと限界があるでしょう。そこ、でも、どうにか限界は知りつつも、切り抜けていきたい。どうにか、作家たちの力も拝借してってできたら理想だなんて思ったりしてます。が、いまの時期、ダンスの作家たちは、横浜に結集してしまうのではないでしょうか。あれです。

「We Dance」

です。
なので、作家さんたちはぼくのブログなど読んでくれないかもしれないですねえ。これは仕方ない。けど、書きたい。だから、ともかくも書き始めます。ところで、ぼくは踊れません。だから「We Dance」といわれるとなんだか、疎外感を受けもします。けれど、それでも、なんだか、いまぼくはそわそわしています。なにかが起きそうな予感がします。(純粋に予感だけなんですけれど。)というか、一昨年、昨年とぼくは「We Danceを批判したひと」というレッテルを貼られたような気がしていますし、世間の見方はおそらくそうなのかもしれません。その批判(ぼくが批判した内容も、ぼくが再批判された内容も)云々については、いまはあまり問題にするつもりはありません。なんですけれど、それでも、ぼくは心密かに(といって、こうやって文章化することによって、公にするのですけれど)このブログ企画を、

「See Dance」

と呼んでしまっています。対抗する気もないし、協同する気もとくにあるというわけではないのですが……はい。それでは、ひとり無料イベント「See Dance」を始めたいと思います。1日1回見てみてくださいー。

ということで。まずは。

身体表現サークル 横浜トリエンナーレでのパフォーマンス 2005
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by kmr-sato | 2011-02-10 22:39


ダンスについて書きます


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