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KATHY (3)

こんにちは。

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See Dance

なかなか集中することができず、滞ることしばしばですが、
今日も、ひとり、「ダンスを見ること」をめぐって書いてみたいと思います。

いま、昨日書いた部分をアップしました。下のエントリーを先にお読みの上、これからの文章におつきあいください。

いやー、リアルにWD見に行けなくなりそうです。せめて、室伏鴻のセクションだけでも、と思っていますが、……どうなるか分かりません。

……

そして、
ダンスについて書くブログなのですが、毎朝妻と「夫婦読書会」を行っておりまして、今日は「三日坊主」とは呼ばせない、なんと四日目を迎え、順調に続いています。そこで、出た話をまず書き散らしてもよいでしょうか。

今日は、p. 25-28(岩波文庫)を読んでいて、そこではこうしたことが論じられている。

「生活と社会とが我々各人から要求するところのものは、現在の境地の輪郭を識別するところの絶えず気を張っている注意であり、それはまた、我々をそれに適応させることができるようにする肉体と精神との一種の弾力である。緊張と弾力、それこそ生が発動させている互いに補足し合う二つの力である。」(pp. 25-26)

と、ベルクソンは「緊張と弾力tension and elasticity」という二つの力が発動した状態をひとは、社会や生活のなかで絶えず求められていると説く。つまり、社会においてひとは、いつも気を張って注意を配り、他人との接触に対して柔軟になっていなければならないというのである。他人との意志のかわし合い、そこでは単に習慣にまかせた一致ではなく、むしろ互いを意識し互いに適応しようと努力する必要がある。

「人と人との間の出来合いの一致だけでは社会にとって十分ではない。それは相互的適応の絶えざる努力を求めるであろう。だから性格なり精神なりないしは肉体なりのこわばりはすべて社会の懸念の種になる。」(p. 26)

例えば、入って一週間とたたないコンビニ店員が客に対応するさまというのは、うまく行って「出来合いの一致」といったものだろう。それだって、お客とのやりとりが出来ているといえば出来ている。けれども、社会が求めるのはそのレヴェルではない。「もてなし」というか、相手の多層的なニーズ(単純に欲しい品物が手に入るということのみならず、相手の自分に対する応対とか)に応えるには、先にみたように緊張感とかしなやかさ(弾力性)が必要だし、それが欠けていれば、それは「こわばり」として伝わる。ここに、ベルクソンは笑いの発生源を見る。そして、この発生源は単に笑いを喚起するというばかりではなく「社会の懸念」があらわれるポイントでもある。

つまり、しなやかさを求める社会においてこわばりを見せた人に、「社会の懸念」をともないながら起こすもの、一種の批判の機能(「笑いはそれ[こわばり]の懲罰なのである」とあります)としてあるのが、ベルクソンのいう笑いなのである。

と、前振りが長くなってしまいましたが、

昨日、

Togetter 吉田豪の唐沢俊一インタビューに関してのtwitterでのやりとり

をなんとなく読んでしまったのですが(ちなみに、ぼくはtwitterをほとんど読まないしちょっとしかツイートしない、オールドタイプでして、こうしたやりとりにあまり慣れていません)、こうしたやり取りは、「社会の懸念」というか(個人的かもしれない)「懸念」を、相手にぶつけて批判しているわけですけれど、その意味で、ベルクソンの「笑い」論をかすめていると思うのですけれど、結果的にはあまり笑えない(笑うということが起きていない)もののように思います。

相手の振る舞いを「こわばっている」と批判して笑い、しかし、批判して笑う当のひとの振る舞いも「こわばっている」ように見えるのです。「あいつ馬鹿」と笑うことは(そう発言した瞬間はその笑いは機能しているかに見えるのですけれど、次第に)自らの硬直性を際立たせることがあって、笑っているひとが笑われる状態へ陥ることってしばしばあると思うのです。問題は、そうして「笑われるA」→「Aを笑うB」→「笑われるB」→「Bを笑うC」……といったサイクルが起こることで、つまり、笑い=批判だとした場合、その批判は確かに一面の真実ではあるかもしれないけれど、別の側面から批判した等の人物の不十分さがあらわになるかもしれず、こうして、批判の祭りが発生して、やがて収束して行くわけです。このサイクルのうちにネットコミュニケーションの健全性をみることもできるでしょうし、まさにベルクソンのように「緊張と弾力性」を社会に発生させるものとして、これをとらえることも出来るかもしれません。

「(笑いは)社会的からだの表面に機械的こわばりとしてとどまっていそうなものをことごとくしなやかにするのだ」(p. 27)

あ、っとなんだか、説明しようとしていたことから脱線してしまいました。ぼくはでも、こうしたサイクルをあまり笑えないなあと思ったのです。先にあげたtwitterのやりとりは、その過程が進んで行くにつれて、そのなかでひとつの「こわばり」の消去が果たされたとはあまりいえなくて、かなり相互に傷をつけ合う闘いをして、端でひとがそれをみて「面白い」といったりするけれど、あまり笑えないなあ、と思うんです。そうそう、こう思うということです、「笑う振る舞いもそれ自体がこわばりのないものでないといけない」のではないか、と。

もちろんこれは、「笑い」論からみた、ということことなんですけれど。

なんとなく、さまざまなことが思い出され、自戒も込めて、そういったことを考えた次第です。

KATHYからずいぶん遠のいてしまった。


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by kmr-sato | 2011-02-19 14:03

KATHY (2)

去年のKATHYの活動のひとつが、これだった。
KATHYの魅力は(コンセプトやタスク的ルールなどはいまは置いておくとして)、
かわいさとグロテスクさ、陶酔と不安、歓喜と暴走というか、ふたつの相反するものが共存していて、その両方を味わっているうちにくらくらしてくるところにある、とぼくは思う。

そんなことを思っていると、次第に別の思いがわいてくる。
独特の少女性(ガーリー)。

少女性といえば、(あまり使われなくなった言葉だけれど)2000年代のコンテンポラリーダンスのなかでは、かなり重要なポイントだったといっていいだろう。

康本雅子みたいなソロを中心とした作家もそうだけれど、とくに女性だけのグループというが、さまざまな登場して、そこにはある大枠では似たところのあった気がするけれど、けれども、それぞれは個性も示していた。

そうした「少女のダンス」を牽引した存在の筆頭としてあげるべきは、

珍しいキノコ舞踊団

だろう。去年のこのCMはシンプルに彼女たちの女の子性をよく示している。

端的にいえば「明るく」て「前向き」で「ちょっとユニーク」で「かわいい」ものが好きな、どっちかというと「おしゃれ」な、あまり「モテ志向のない」女の子。同性の内部で盛上がっている感じ、別に男性を無視したり蔑視しているわけではないけれど。

ダンスというものは、気分の高揚が自発的な仕方で生まれていることが求められる。ただ歩くのではなくてスキップしている状態、それをダンスの萌芽とすれば、なぜスキップしてしまうのかという点が重要であり、この

歩く→スキップ

という移行は、ミュージカルにとって常に懸案事項となるところではあるのだけれど、ミュージカルに限らず、ダンスというジャンルにとって、かなり深い問題をはらんだことがらなのではないだろうか。

とすると、「明るく」て「前向き」な女の子というのは、とても大事なポイントではあろう。音楽でもかけるとうきうきしてきて踊ってしまう。そんな気分を生きている女の子。珍しいキノコ舞踊団とは、そうした面をもったグループだ、とぼくは思う。

あと、重要なのは、気分の高揚が「ダンス」というフォーマットにおさめられるだけの裕福な家庭に育った(ように見える)こと。バレエなり、モダンダンスなりを「お稽古」してきた女の子。良家の子女なのだ。この少女性は、日本のコンテンポラリーダンスにおける女性グループを考えるうえで、無視できない起点(先に述べた言い方を踏襲するならば「ある大枠」)であるように思う。

そして、例えば、ほうほう堂という存在がいて、矢内原さんの作品に「チョコレート」という女の子二人が踊る作品があり、pinkという女の子三人組がいたり、など、「女の子たちが踊る」というところにさまざまなアプローチがあった(し、もちろんいまも継続中である)。


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by kmr-sato | 2011-02-19 11:39

See Dance 九日目 KATHY(1)

おはようございます。
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さっき、第3回の夫婦読書会(いまのところ順調に毎朝開催中)でベルクソン『笑い』を読んでいたら、テレビで「ピタゴラスイッチ」が始まった。いまちょっと面白い事になってますね。「アルゴリリズムこうしん MAX」、スピードが1.5倍とか1.75倍とかになっているんです。おー、「こうしん」も進化しているんですね。スピードアップというアイディアは、「倍」って言い方もそうだけど、とても映像的ですよね。見てても、映像的にスピードアップしている気がする。その感じが面白い。

と。そして、今日のベルクソン

「けれどもおかしみの感を我々に与える弱点【vice: 悪癖】は、それとは逆に、我々が自分をその中に嵌め込む出来合いの枠(a ready-made frame into which we are to step)のように、外部から我々にもたらされる弱点だ。それは我々のしなやかさを我々から借りる代わりに、却って我々にそのこわばりを押しつける。我々がそれを複雑化させるのではい。逆にこのものが我々を単純化するのである。」(岩波文庫p. 23)

ここに出てくる「出来合い」と訳されている「ready-made」(これも原文の英語訳なんだけれど)が、デュシャンの「レディメイド」概念になにほどが影響を与えたのではないかという論文があって、それもあって、いま『笑い』を読んでいるのですが、今日出てきました。なかなかに興味深い。どじして笑われる、なんてのを例にしてみるならば、「歩いていて石につまづく」みたいな出来事を誰かが起こしてしまうとき人は笑い、笑われる人は「どじ」という悪癖のうちに自分が嵌め込まれてしまった結果笑われるというわけだ。「どじ」キャラは、「弱点vice」として、外部からやってくる。いまキャラと呼んだものをベルクソンは「出来合いの枠a ready-made frame」と表現しているのです。

ごにょごにょ。

では、See Danceはじめます。

KATHY

KATHY

KATHY


KATHYのコンセプトとか、それをタスクのアイディアとして受け止めてみることとか、拙書『未来のダンスを開発する フィジカル・アート・セオリー入門』のなかで書いたので、その点ははしょります。ぜひ、そちらをご一読ください。

まずは、見てみましょう。

KATHY's Summer Dream

ととと、11:00に妻を送り出してから、息子の世話から離れられない。

13:05にはNHKのお昼のトーク番組に前田司郎がゲストで驚いた!
14:00には、『QJ』の吉田豪が唐沢俊一にインタビューした件で、twitterがとんでもなく盛上がっているのを見て、ちょっと暗くなった。

なんてしている間に、時間がどんどんたってしまったので、とりあえずここでアップします。
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by kmr-sato | 2011-02-18 15:05

See Dance 八日目

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今日は朝から大学での仕事で、、、

明日KATHYをめぐってのダンスの話、はじめます。
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by kmr-sato | 2011-02-17 21:08

ルーブ・ゴールドバーグのことファイナル(2)

さっきはミュージック・ビデオをとりあげましたが、それに限らず、本当はもっといろいろとあげて考えてみたいと思っているのです。そこにあるダンス、を。

Camping trip Disney Classic Cartoon

M.I.A. Galang

「ゴダール・ソシアリスム」予告

Hitchcock Strangers on a Train opening

Jacques Tati Playtime Window Cleaning

でも、ちょっときりがないので、別の話をしましょう。

「チェイン・リアクション」というものは、別に現代美術じゃなくても、ダンスじゃなくても、さまざまなところに存在しているなにか、と見るべきかもしれません。

会話とか。

お笑いとか。

昨年末は、スリムクラブが大きな話題になりましたけれど、ぼけに対してどう突っ込むかというのもまた、リアクションの連鎖という問題としてとらえることが出来るのかもしれません。彼らは、極端に「スローな仕方で受け答えする」ということをやってみたわけですけれど、それを以前紹介したゴールドバーグの漫画に出てきた「子犬が成長してしっぽが伸びる」といった極端にスローなぼけとして理解してみたら、どうでしょうか。


さて、ようやく、最後の理由です。
(なぜひとはルーブ・ゴールドバーグ・マシーンを見たがるのか?という問いに暫定的に答える試みをしているのです。)

(3)世界を異質なるものの生命の中継として見たいから

これは、最近行ったこのイベントを通して考えていたことなんですけれど。

遠藤一郎 Drive Photo Music the Movie

このイベントで遠藤一郎は、二日かけて東京から別府まで(おそらく)「未来へ号」で旅した模様について、正面と両方の側面に設置したビデオカメラの映像を編集し、コバルト爆弾αΩの音を重ねて、さらに本人の生解説をつけて、観客に紹介したのだった。およそ1時間。彼の「Drive Photo Music」というシリーズ作品では、これまで「未来へ号」での旅を通して遠藤が感じてきたこと考えてきたことを、車窓から撮った写真の上にエンジンオイルで文字を書くという表現が用いられてきた。それも悪くはないのだけれど、今回の表現方法は彼の思いを表現するさしあたり最良のものになったと思わされた。すごくよかったのだ。あれは、いろいろなところで、今後、上演し続けてほしい。なんというか、一緒に「未来へ号」に乗っているような感覚になるのだ。そして、彼の語りは、基本的には、よいこともわるいこともすべて、この世界で起こっている事実であり、それはすべて未来へ向かっているのであり、とくに目に止まるのは、道路や橋などが人間のつながりたい欲望に端を発して作られたのであろうということで、すなわち、彼のまなざしを通して見えるのは、車窓から見えるさまざまなものたちは、人間がその欲望を爆発させて作った彫刻のようなものであって、自然と絡み合いながら、そうした巨大な彫刻のようなものが、見るものをアッパーにしたりダウナーにしたりしながら、存在しているという社会を彫刻としてみるような見方である(彼が具体的に「彫刻」という言葉を口にしたかは忘れてしまった。彼の語りを聞きながら、ぼくのなかで浮かんだイメージかもしれない)。

ようするに、彼のまなざしからすれば、世界は、その部分と部分がつながり合って存在している、いわば「ルーブ・ゴールドバーグ・マシーン」のようなものとして見えているのではないか、と思うのだ。彼は自分でペインティングするときには、細密な描写というものはあまりしないし、多くは文字ばかりであったり、抽象的な形象が伴うだけだったりするのだけれど、この映像は、彼のなかでもっともいわゆる絵画や彫刻という古典的な美術に近い作品のように思えた、しかし、もちろんそれは彼が描いたり彫ったりしているわではない、世界を作品と見たててそれを撮影して、それをもって自分の作品としているという次第。

世界を「ルーブ・ゴールドバーグ・マシーン」として見る。そんな視点、昨今、美術批評の世界でやたらと話題のRelational Aesthetics(関係の美学、つながりの美学)にも似ているけれども、ぼくはともかく、こうした点について、ぼくは遠藤にいつも教えられている気がしている。

あー、なんだか、どんどん「いわゆるダンス」から離れているように見えていると思いますが、大丈夫ですかー

ついてきてもらえてますかー

でも、

別府温泉の町中で乱暴な蒸気を吹き出しまくっているさまとか、横浜ベイブリッジの下にあるジャンクションへ向かうぐるぐると急カーブを描いてゆく道とか、さまざまなものがぼくにとっては、興味深い運動ではあるわけで、そうした表層的なところをとってみても、ダンスと別物と思わなくてもいいと思うんです。

あと、最後に、泉太郎の方法のなかにも多分に「ルーブ」的なところはあると思います。ぼくが巻き込まれた(?)「さまよう三つ子の魂」の上演なんてまさにそうでしょう?あれは、ぼくと泉が、ライブハウスの一部屋の端と端にいてメールで会話をするというもので、それぞれのメールの文面はスクリーンにディスプレイされているのだけれど、そのスクリーンには細工がしてあって、しるしがあちこちにつけられ、そのしるしのところになにかしら文字があたると(メールはひらがなだけ用いるというルールがあった)、自分の割り当てられた文字が出た観客は、ホラーっぽい照明のもとで写真撮影され、その写真がすぐさまスクリーンに映される、なんて「チェイン・リアクション」が仕掛けられていた。さらに、スクリーンには、ギタリストとピアニストへの指示もされるようになっていて、また文字と鍵盤やフレットが対応していて、ある文字がくるとある音を弾くといった仕方で「演奏」が同時に行われていたのです。さらに、ぼくはそんなのなかったんだけれど、泉は同じような仕掛けで、音を出したりいろいろしていたそうです(ぼくは泉の反対側で黙々と泉のメールに返信していたので、その詳細がまったくわからないままです)。

ある観客は、パフォーマンス中ずっとぼくの挙動を見ていたと話してくれました。なるほど、メールに返信するその身体がなにほどかのスリルを見る者に(ぼくみたいな身体であったとしても)与えることが出来ていたのかもしれません。どんなレスをするのか、そのレスをするときの身体はどんな状態になるのか、そうした、ある環境におかれた人間の姿を観察する喜びが、観客にはあったはずです。そうした人間がその場で即興的に作り上げる彫刻がそれ自体、あのときの作品だったわけです。
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by kmr-sato | 2011-02-16 13:46

ルーブ・ゴールドバーグのことファイナル(1)

おはようございます。See Dance 七日目です。

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昨日は結局、息子と遊んでいる間に時が経ってしまいました。夕方一緒にお風呂入ったり。「おかあさんといっしょ」見たり。

今朝は、雪のこともあって(写真は外の様子。八王子では15センチほど積もりました。さっき撮ってきたばかりですが、雪まだ溶けてない)昨日走れなかったので、今日は北野駅まで、iphone片手に。

その後、懸案だった夫婦読書会を決行。8:30から1時間(すごい身の詰まった午前だ!)。読むのは、ベルクソンの『笑い』。第一章から、ぼくが英語訳を読み、妻がフランス語をチェックし、林達夫訳を参照する。今日一番面白かった文章は、

「常に感じ易く、生の合唱に調子が合っており、あらゆる事件が感情的な共鳴をともなうようになっている心の人びとは、笑いを知ることもなければ、理解することもないであろう。」(14)

かな。笑い論なのに「生の合唱」を代表例として音楽を比喩的にも実際的にも取り上げることが多いベルクソン。

「ダンスしている人々が我々に直ぐさま馬鹿らしく見えるためには、ダンスが行われているサロンの中で、音楽の音に我々の耳を塞ぎさえすれば十分である」(15)

なんてあたりは、オーディオ/ビジュアルの関係(とくに映画とか)について考えたりした。まんま『アフロディズニー』的視点だけど、やはりこのあたり時代のものの考え方として興味深い。ちなみに、『笑い』は1900年の著作です。

と、大いなる脱線から始まりましたが、See Dance、今日も開催します。

ダンスが好きだ、ダンスを楽しみたい、面白がりたい、フィジカルにまた知的に。

でも、別に、ジャンルとしてのダンスに縛られる気もない。「ダンスだな!」と思えるものに執着して、その魅力の謎に少しでも(昨日よりも)迫れたらそれでいい。

自分の「ダンスを見るまなざし」を確認したいのです。

えーっと、いろいろと「それは、こういうわけで」と注釈を加えたくなりますが、飛ばします!

……

さて、ぼくは以前のエントリーで、
////////////////
なぜひとはチェイン・リアクションを見たがるのだろうか?

この問いに関して、暫定的ですが、解答を三点考えてみました。

(1)「生命」を見たいから
(2)異質なるものの生命の中継を見たいから
(3)世界を異質なるものの生命の中継として見たいから
////////////////

と書き、(2)の途中まで進んだと思います。その続きからはじめましょう。

Mia Doi Todd "Open You Heart"

を見たところまででしたね。あらためて、これ見てもらえるでしょうか。いかにも、ゴンドリーらしい作品。カラフルでかわいい。歌手が、家から出てくると彼女を追いかけるように世界が変化していきます。その変化をさしあたり、「ルーブ・ゴールドバーグ」的(かなり拡大解釈ですが)と見てみることにします。ここでは、色の連鎖が、同じ色とか補色とか、「チェイン・リアクション」として展開していると見ることができます。ゴンドリーの特徴と言えると思うのですが、日常のありふれた状況にちょっと手を加えることで、そこに日常では起こりえない出来事が、しかし、あからさま非日常(日常からの逸脱)ともいえない微妙な距離で展開していきます。

ありえないチェイニングがそのありえなさを保ちつつ、スムースにつながっているのがゴンドリーの表現だとしましょう。ところで、「チェイン・リアクション」系の表現では、この「ありえなさ」と「スムース」のどちらに力点を置くかで、起こることが変わってくると思われます。「スムース」により近づいているのは、例えば、こんな作品。

The Chemical Brothers "Star Guitar"

ただの車窓の景色のようですが、目に飛び込んでくる線路脇の小屋とか電柱とかがやたらと音楽に合っています。途中から気づくと思うのですが、これはCGなんですね。ああ、CGかー、じゃあこんなことくらいちょちょいのちょいだわ、と思ってしまいます(ここがスムースの魔法が脱魔術化され消極的な効果を生じさせてしまうところ)が、それでも、まあ音楽に景色がノっているみたいで、面白いは面白い。

と、考えると、やはりある程度の「ありえなさ」(異質なもの同士の出会い)がなければ面白くないということですよね。

これがひとつの結論なのですが、ちょっと脱線します。

さて、では、こういうのだとどうでしょう。

MGMT "KIds"

冒頭に、You Tubeのような枠が出てきますが、ビデオのつくりとしては、顔をペインティングした小ミュージシャンらしきメンツがパフォーマンスする合間に、音楽に合った(合わせた)ダンス映像がインサートされるというものです。

面白い、また現代的な映像だとも思います。
けれども、なんだか、ぼくはこの映像を見て、不満な気持ちになりました。
そしてなぜそう思ったのか、考えてみました。
ぼくの結論はこうです。

このMGMTはロックをダンスミュージック的に解釈しているバンドだと理解できると思うのですが、そのディスコ性、それがこの映像を生み出していると考えられはしないでしょうか。

ディスコ音楽は、あるベースになるリズムが鳴っていて、そのBPMに合うものであれば、たいていの音楽要素は、その上に乗せることができます。それはとても意外なものを持ち込んでくる場合でもそうです。そして、実際、この映像では、そうした意外なものの持ち込みが随所で起こっています。

それなのに、「ありえなさ」(異質なもの同士の出会い)を感じないのです。どんな要素も、折り目正しく全体のなかに吸収され、おとなしくなってしまっている、と感じてしまうのです。壁紙におどる図柄がどんなに突拍子のないものでも、案外静かにそこに収まっているみたいなことです。

ダンス(ダンスミュージック)・ベースで「チェイン・リアクション」を構想するとでてくるものは、そうした安定感をもってしまうことになるでしょう。(実は、こうした事柄を考えるときぼくがいつも思い出すのは快快のことです。「Shibahama」はまさにこうした状態についての演劇だったのではないでしょうか)

こうした点、息子と「おかあさんといっしょ」のOPを見ていたときに思ったのです。(笑)

あのOPでは「折り紙で出来たものたちが次々と変身してゆく」というイメージが展開されるのですが、紙ではなくCGで作られています。CGは「折り重なり」とか「さっきまでのかたちがべつのかたちへと変化した」といった重層性(奥行き性)や変容性を、あまりに美しく処理してしまうので、あまり実感としてその事態を受け止められないのです。こりゃ、子供の教育的にはどうなのかな、と思いながら見ています。

しかし、ぼくはOLDなのかもしれません。

新しい感性は、CGのなかに巧みに折り紙の性格を読み取るのでも、CGを折り紙として楽しむのでもなく、CG的表現をそのままそれとして享受しているのかもしれません。

その際生じている「チェイニング」に対する心の持ちようは、OLDなぼくのと相当違うものになっているはずです。

おそらく、ぼくの価値観でとらえていてもらちの開かない事態が起こっているのだろうなあと、思います。それでいて、ぼくは相変わらず、「ありえなさ」や変身に魅力を感じてしまうのですが。

(このあたりのことは、以前ちょっとだけとりあげたARなどをちゃんと考える必要があるということなのかもしれません。二次元と三次元の関係について、映像と身体の関係について)

と、脱線が長くなったので、(3)については、別エントリーにしたいと思います!
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by kmr-sato | 2011-02-16 11:12

番外編(1)

息子が背中で寝ているスキに、、、

ホリエモンが主演したミュージカル。集客の新しいモデルとしてまじめに検討するべきなのかもしれない。ダンス公演、演劇公演、のみならず、例えば美術の展示でも、画質がよくて、向こうにこちらの願いを聞き入れてくれるカメラマンがいれば、自宅に居ながらにして、展示を見るという経験が経験として成立するかもしれない。例えば、1500円の森美術館での美術展示をカメラマンに1時間お願いして自宅で見ると1000円、とか。画質の問題ならば、あと5年もすれば解決するかもしれない。
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by kmr-sato | 2011-02-15 10:10

See Dance六日目

おはようございます。

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See Dance六日目。

今日は、昼間、息子の子守り担当なので、更新のペースが落ちるかもですが、
よろしくお願いします。

きれいな雪の朝です。
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by kmr-sato | 2011-02-15 08:22

捩子ぴじん「syzygy」が賞をとった

捩子ぴじん「横浜ダンスコレクション EX / 審査員賞」受賞!だそうだ!

もう数年見に行ってませんでした。このコンペティション。まさか捩子ぴじんがエントリーしているなんて(連絡欲しかったよ!ちょっと恥ずかしいじゃん。)

GUDの一つの成果。よかった。賞というものはいいものです。おめでとう!


2/11のSee Danceにて、ぼくは捩子ぴじん「syzygy」について、
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もう上演して二年近くたつのですが、あらためて見ても、面白いよなー。

この作品の上演にはぼくも関わったので、なんとなく手前味噌なのですが、そんなことで自重するのはよそう。これは、いまの日本における、クレイジーで、クリエイティヴな、ひとつの達成です。捩子ぴじん、すごいじゃないか!これを数年続けたら、なにか「明確なもの」が出てくる気がする。んー。

ここで見てきたのと比べると「syzygy」のポイントは、スピードだ。
かなりヘヴィなタスクが、するするとどんどん展開していく。そのSFチックな、映画的な世界が、舞台上に広がっているという、目指すところがなかなか恐ろしい作品。

あと、重要なのは、「チェイン・リアクション」が起きていること。この点については、次に書きます。

「sygyzy」プロジェクトが、ここで止まっているのは、とても惜しい。小さなトライアルでもいいので、ここを起点にさらなる作品作りを進めていてくれたらいいのに、と思って、二年が経とうとしている。
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と書きましたが、ね。よかった!

See Dance盛り上がってきました!
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by kmr-sato | 2011-02-14 20:15

なぜひとはルーブ・ゴールドバーグ・マシーンを見たがるのか?

おはようございます。

昨日から、NIke+ GPSと一緒にジョギングをはじめました。
今朝(6:50-)も。さむー。5キロほど。radiko.jpでJ-wave。二週間ぶりに戻ってきた別所哲也は鼻声でした。
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今日は雨だそうです。ジョグの帰りには確かにちよっと降っていました。雨はでも春の兆し。

今日もSee Dance、たくさんダンスを見ていきましょう。今週は、ダンスウィーク!(個人的に)

さて、今日のテーマです。

なぜひとはチェイン・リアクションを見たがるのだろうか?

この問いに関して、暫定的ですが、解答を三点考えてみました。

(1)「生命」を見たいから
(2)異質なるものの生命の中継を見たいから
(3)世界を異質なるものの生命の中継として見たいから

(1)「生命」を見たいから
とても大きな話になりそうな解答です。そして、多分、そうしなければ語れないことであると思います。(ベルクソン「笑い」ことを以前ちょっとあげましたが、例えば、この時代のこうした著作のなかで考察されている生命の哲学は無視できないはずです。)

けれども、ちょっとその辺りの理論的なことは、いずれ考えることにして、いまここで行われているのは「イベント」=お祭りですから、こうした視点から感受できる興味深いポイントだけを指摘して、盛り上がってみる、ということに集中しましょう。

ルーブ・ゴールドバーグ・マシーンは、「生命」を見ることになる。そう思いませんか?

「ピタゴラ装置」

機械=生体。生体のような機械。それは、血液を次々とさまざまな部位に運んでゆく血管のように、玉を運んでゆくことで、ぼくたちはそこに生きたものの姿を一瞬(もちろんフィクショナルなものと分かっていながら)見てしまいます。それが面白いのではないでしょうか。

再度そう思って、フィシュリ・アンド・ヴァイスを見てみましょう。

Fischliand Weiss The way things go

彼らの「マシーン」は、科学的な変化を起こして進んでいきますので、物理的でありつつ、ときに生命を感じさせるものです。

さて、「Chain Reaction」展カタログでは、こうした「マシーン」の性格をダンスに引きつけて考えている作家のコメントがありました。ダイアナ・クーパー。彼の考えに、しばし、耳を傾けることにしましょう。

「 あることが別のことを導くというチェイン・リアクションの考えは、人間の身体と心が機能する仕方に似ています。ある意味で、私の心は、これらの問いに応答するために、チェイン・リアクションのメカニズムを用いているところです。つまり、ある思考が別の思考を導き、ということが引き続いてゆきます。即興的なダンスといたずら書きのドローイングの両方とも、チェイン・リアクションのような特質を有しており、私に影響を与えています。即興的なダンスは、避けようもなく身体的ですし、身体と心は、既にあったものにさらに付け加えられる連続する動きを数珠つなぎにしてゆくことに従事しています。即興を通してダンスを創造するとき、協調ならびに遊びの感覚が存在しています。Diana Cooper: The Idea of a chain reaction, that one thing leads to another, resembles the way the human body and mind function. In a sense, my mind is using the mechanism of a chain reaction to respond to these questions: one thought is leading to another and so on and so forth. Both improvisational dance and doodle-based drawing have chain reaction-like qualities and have influenced me. Improvisational dance is unavoidably physical, the body and mind is involved in stringing together a succession of movements that build on preceding ones. When creating dance through improvisation there is a give and take and a sense of play. 」(Chain Reaction, pp. 47-49)

「即興的ダンス」は「チェイン・リアクション」である、とはなかなか啓発的な発言ではないでしょうか。いや、はじめて見たときには、そんなことイメージしたかもしれないけれど、あっという間に、忘れ去ってしまった、そんな事柄かもしれません。クーパーがいいたいだろうことを、ぼくなりに噛み砕くと、即興的ダンスのなかで、身体と心は、瞬時に互いをアクションを起こしてきた対象とみなし自分の次のアクション(リアクション)を試みる、そうした関係にあるということでしょう。

A アイディア(心)
   ↓
B 実行(心→身体)
   ↓
C 心のリアクションとしての動作(身体)
   ↓
D Cに対するリアクションの必要(心)
   ↓
E 動作のリアクションとしてのアイディア(心)
   ↓
F 実行(心→身体)
   ↓
G 心のリアクションとしての動作(身体)
……

みたいなことではないでしょうか。(ちょっとややこしいですけれど)

さて、こうしたリアクションし合う心身の関係に似た関係が、コンタクト・インプロヴィゼイションの二組のなかで起きていると考えることは可能でしょう。そうであるならば、コンタクト・インプロヴィゼイションとは、ひとつの「チェイン・リアクション」なわけです。

これっていうのが見つからなかったので、サンプルとしてContact Improvisation with Stephanie Nugent

おそらく大事なことは、動作が手前の動作に対する「リアクション」であることではないでしょうか。「生命」を見るということは、かならずしも単体の生き物の生き生きとしたさまに感じるものではないかもしれません。なにかのリアクションとしてある欲望が、ある感情がそこに存在しているときに、リアリティのある生命のかたちがたちあらわれる、と考えるべきなのではないでしょうか。そういう意味では、ここにあるのは関係の表現なのです。「コンタクト・インプロヴィゼイション」が魅力的になっているのは、次々とうまくことがすすんでいる場合とは限らないのは、ここにポイントがあるのかもしれません。「関係」が意識されないほどに、するするとうまくいってしまうと、コンタクトの意味がなくなってしまうのです。ダンサーとしては、そうした美しさを目標にしたくなるかもしれませんが、見ている側としては、その美しさは、「はらはら」が減退してしまうがゆえに、望ましいものとはいいがたいところがあります。そんなことを思いながら、映像を見てみましょう。

強調しますが、アクションがリアクションであることを通して、生命は舞台にあらわれるのです。それを教えてくれているのは、身体表現サークルであり、contact Gonzoです。

(2)異質なるものの生命の中継を見たいから
なんだか、すんごく長いエントリーになってしまいそうな予感がしますが、ともかく続けます!

「関係の表現」ということに関わるのですが、「チェイン・リアクション」が面白いのは、「異質なるもの」の間で「生命」の「中継」がなされるからではないでょうか。

いわゆる「ピタゴラ装置」しかり、「The way things go」しかり。普段出会わないもの同士がたまたま出会い、ことを受け渡し続けている、というところに、魅力があるのです。その点で、「チェイン・リアクション」はシュルレアリスムの精神をいくぶんか携えている必要があります。「ミシン」と「こうもり傘」が出会ってこそ、「チェイン」することは面白いのです。その(シュルレアリスムの)程度が低くなると、見ている者は退屈になってきます。

おかなしつながり、それにもかかわらずたしかにつながってゆくこと。

これは、突飛な話に思われるかもしれませんが、映画でいう「モンタージュ」にそっくりです。

ということで、ザ・モンタージュ、エイゼンシュテイン「戦艦ポチョムキン」を見てみましょう。

Battleship Potemkin -Sergei Eisenstein

モンタージュは、別々に撮った、その意味で無関係ともいえる映像をつなげることで、ひとつのシーン、ひとつの意味を見る者に読み取らせる技法です。例えば、この動画の最初のカットでは

A「女が乳母車で階段を下りられずに四苦八苦している」 次は

B「階段を銃を前に向けた兵隊たちが並列して降りている」

わけですけれど、AとBは必ずしも、結びつきが自明であるわけではありません。たまたま並んでいるともいえる。しかし、その一方で、当たり前のように、見る者はそれをつながっているものとして見るわけです。ここには、モンタージュ映画独特の「チェイン・リアクション」が発生しているととらえることができます。その独自性については、これまたじっくりやるとイベントこれだけで終わってしまいますので、いずれ考えることにして、ここでは割愛します。

そーかー、美術とダンスで「チェイン・リアクション」のことを考えてきたのがいま映画が一個増えたわけだね、とお考えになったあなた!そうじゃないのです。この映像という手段は、実は、ダンスの問題にダイレクトに関わっているのです。少なくとも、次のフェルナンド・レジェの作品を見たりなどすると、そう考える可能性のあることが分かるはずです。

Ballet Mecanique

機械 映像 ダンス がここでは融合しています。その融合の要になっているのが、「チェイン・リアクション」だとしたら、どうでしょうか。

ある場面と別の場面が、ある時間と別の時間が、あるものとべつのものが、つながってゆくこと。おかしな「中継」。しかし、それがおかしいものであればあるほど、つながっていると思わされた瞬間そこになんともいえない感動が広がる。そんな中継のスリルをダンスと呼んでみること可能なのではないでしょうか。例えば、こんな「色」のダンスのなかにある「チェイン」のおかしさ、楽しさのなかに!

Mia Doi Todd Open Your Heart by Gondry

もう少し、このテーマ、書き続けたいのですが((3)についてまだなにも触れていないし)、さっすがに、長くなりすぎていると思うので、しばし休憩。
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by kmr-sato | 2011-02-14 11:01


ダンスについて書きます


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