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講義がはじまった。

5/7
大学での講義が先週からようやく始まった。

四月の大学業務が始まらない20日間くらいは、本当につらかった。なにか強制的に引きこもりさせられているような、息子とEテレ見ながら、ずる休みして小学生が見ているみたいな気持ちになっていた。講義は、ゼミを除けば、4-7月の間で、だいたい50回くらい行う。90分ワンセットのおしゃべりが50回もできるというのは、なかなか嬉しいことだ(ぼくはずいぶんおしゃべり好きなのだと確認)。しゃべることは(こんなこと言うと学生の皆さんには申し訳ないが)、ぼくにとってかなりの精神的「デトックス」効果があるようで、この二週間でとてもすっきりしてきた。

学生のなかには「ブログ読んでますよ」と言ってくれるのもいる。でも最近更新してないものだから、「震災後に、先生なに考えているのかとアクセスしたが全然更新されない」と言われてしまった。「ブログ含め、とくにtwitterみたいな情報の洪水に巻き込まれるのも、ひとを巻き込むのも嫌だったから、ネット上に全然書けなかった」と返事した。本当に、そういう気分だった。

できたら、ブログを毎日とは言えないけれどある程度頻繁に更新していこうかなと思いますが、そう思ったのは、最近、このブログ、誰にも読まれていないような気がするからで、読まれていないなら、むしろどんどん書いていこうかなと。twitterの世の中に、隠れて、ブログする、と。ひそひそ声で、ダンスのこと、その他アートのこと、身の回りのこと、書いて行きます。

昨日は、「夢ナビ」から取材を受けた。大学ではぼくの学生時代では考えられないくらい精力的にオープンキャンパスが行われているけれど、これは大学講義の見本市というか、さまざまな大学から教員たちを集めて、ビッグサイトで講義をさせるというイベントなのだ。教員もパフォーマーであることが求められる時代になってきたということか。30分の講義を準備しなければならないのだが、「30分」しかないので、これは思い切って、早口ラップでもつくってみようかな。

さらに昨日は、取材の後で、3コマ講義を行った後、新百合ケ丘に。「サブロ・フラグメンツ」。とても面白く、新鮮に見た。腕を猛烈な早さで振り回しているさまには、「人力ロイフラー」という言葉が浮かんだ。トリアディックバレエを連想させる場面もあった(ぼくにはそう見えた)。「人力」状態がいいなと思わされた。映像の時代、情報の時代に、あえて「人力」、でもそれがそれであるが故に面白い、そう思わせるところに「ダンス」がいまもちうる最大の長所を見たくなった。「眼の前でひとが猛烈に腕を振り回している」というただその事態に、特別な価値をみとめるべきではないかと。ところで、終幕近くの、床に照明で白いラインが縞状に引かれ、そこにちょこんと体育座りしたり、横になったりしている場面は、どうしても「震災のメタファー」に見えてしまったのだけれど、そして、プログラムの文章からも、そういう読みを促すような箇所(3.11以後に内容を変更したという)があったのだけれど、こうした表現をぼくはいいともわるいとも判断ができないままでいる。震災後しばらく、テレビを消すわけにも行かないけれど、見れば不安になり、はがゆくなってしまうというあの気分にちょっと近いものがあるのかもしれない。震災を無視できないという状況は、でも、積極的に捉えれば、新たな、なにかフレッシュな表現を生むきっかけになるのかもしれない。「戦後文学」みたいに「震災後芸術」とでもいうしかない表現の状況にいまあるのかもしれない。

あ、明日で40だ
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by kmr-sato | 2011-05-07 06:29

artscape 2011/4

artscapeに批評文アップされました。

大倉摩矢子「Mr.」

高田冬彦『Many Classic Moments』(高田冬彦+平川恒太「第2回 道徳」展)

サンガツ『Catch and Throw Vol.1』
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by kmr-sato | 2011-05-03 05:36

『10+1』に書いたものたち

震災以後、何も書く気が起きず(いや、本当はそれでも三月には100枚くらいの原稿をいろんな種類書いてはいました、男性ファッション誌『HUGE』に寄稿したり、しかし、こうしたネット上に文章を書く気がまったく起きませんでした)、久しぶりに投稿します。

とりあえず、いまはartscapeなどでお仕事をしている編集者さんから、『10+1』で書いたものがウェブ化されたと聞いていたのに、どこにも宣伝しなかったので、宣伝しますね。

「コレオグラフィとしての都市・東京」(『10+1』No. 47, 2007)

かなり早い時点でのChim↑Pom評です、少なくともまとまった量としては、ぼくが書いた最初のChim↑Pomについての原稿です。

それにしても、今日見たヘンリー・ダーガーの素晴らしいこと(@ラフォーレ原宿)!

フェルメールとかシャガールみたいに、十年後くらいには、超メジャー的な人気を得るのかもしれないな。見ているとふかーい気持ちになる。ふかーく、自分のなかのロリータコンプレックスのなかに溺れて行きそうになる。

あ、そう、そこで菊地成孔さんが、ダーガーみたいな徹底した引きこもりは、ネット的なコミュが発達した社会では不可能だ、みたいなコメントを展示会場の出口手前に吊るしてあったコメント文で書いていたけれど、そうでもあり、そうでもないと思った。菊地さんの文章(思考)は、ある小さい枠をものごとに嵌め込んで、その枠で縁取られた世界を「世界」として語るきわめてエレガントな語り口に魅力のほとんどすべてがあると感じるのだけれど(素晴らしい批評文というのは、ほとんどすべてそういうものだとも思うのだけれど)、その「枠」がひとを縛るところに発生する快楽についても理解しているつもりだけれど、でも、もうそういう「枠」から自由でいたいなとも思うのだ。ダーガーは可能だ。絶対にそうだ。3/11以降、ネット上にほとんどなにも書き残さなかったからと言って、ぼくの人生に何もなかったはずはない。いろいろとあって、ただネット的にそれが公開されていないだけだ。公開されていないものだらけなのじゃなかろうか、人生の大部分は。ダーガーの思いの強さに誰もが打たれる展示だと思うのだけれど、その強い思いが「もうない」などと思う必要はまったくないのではないだろうか。ぼくはダーガーに打たれ、そして未来のダーガーを待っている自分に気づいた。
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by kmr-sato | 2011-05-02 20:47

バリバラ

バリアフリー・バラエティー(NHK教育テレビ「きらっといきる」金曜20:00-)がとても気になる。(このページからいろいろ過去の動画が観られます。)

twitterで思わずもらしたように、先週は爆笑してしまった。けれど、なぜぼくは笑ったのか、その笑いの仕組みがまだよく分かっていない。「かわいそう」とか「がんばってる」とかそんな理由じゃないはず。既存の笑いがぶっこわれて、なにか新しい次元が開かれていき、その開かれた先に未来があるという感じがしたのだ。

最新の『Quick Japan』でも、とりあげられていた(今月号はとても面白い。買いです。密かに、めちゃいけのBPOに対決した番組は本当に奇跡のように素晴らしいと思っていたのですが、誰もそのことをその後語っていなかったので、座談会でその話題が出て本当にうれしかった、なんてこともあったりなど)。

「鮫肌 僕は去年の中で一番衝撃だったのは『バリバラ』なんですよ。
高須 あれ、どう受け止めていいか、個人的にはわからんねん。
……
鮫肌 番組内容を一応説明すると、「障害もひとつの個性」ってところで、たとえば障害者の芸人がたくさん出てきてネタをやるわけですよ。テレビでメシ食べてる人が一番衝撃を受けた番組だと思う。
田中 幕が開いて車椅子が並んでいる状況なんて、あるわけないと思ったからね。
樋口 『ナニコレ珍百景』のパロディ観ました?車椅子のスロープの下のほうになぜか階段がある映像が流れるんですよ。そしたら「こんなのありえないよ!」ってみんなで笑う(笑)。健常者は絶対に気づかない視点というのが、いい切り口だなーと。」

「中野 番組身観ると、相当巧妙な作り方をしてるんだよね。
田中 うん。『バリバラ』は最初から「笑かそう」って言っちゃってるからセーフなんだよ。途中途中、MCの山本シュウとか、みんな笑っている絵を入れるじゃん。「笑っていいんですよ」ということが視聴者に伝わるようにしてある。微妙に押しつけっぽいけど。
中野 それにあの番組、『きらっといきる』のフレームの中での企画でしょ。福祉番組と同列のものとして放送してるのも巧妙。
鮫肌 それを何の前触れもなくスペシャルでやったのには本当にびっくりした。視聴率はスペシャルで0.6%だったらしい。
高須 それぐらいかー。描き方が納得できなかったり、面白いものとして観るには重く感じる人もいるんやろうね。
樋口 観ないことを障害者へのいたわりだと思ってる人もいますもんね。僕は面白いか面白くないかの判断でイイと思う。」

(『Ouick Japan』Vol. 94, 2011)

大事なのは、ホームページの中で「障害のある人もない人も、一緒に笑いながらバリアフリーについて考えてみませんか。」と呼びかけられている一方で、「「きらっといきる」は障害のある人が主人公です。」という言葉や「障害者の 障害者による 障害者のためのバラエティー番組。」なんて言葉に込められたことではないかと思う。「障害者のための」笑いだということ。


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by kmr-sato | 2011-03-03 11:26

身体=機械のダンス

Das Mechanische Ballet 1923 by Kurt Schmidt and Georg Teltscher
とあるが、、、

当時のものではないと思うけど

「機械時代」の身体=機械のダンス
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by kmr-sato | 2011-03-01 14:31

Perfume

今日は仕事場で世の理不尽をめいっぱい吸い込んだ後なので、ちょっと乱暴な投稿を!

Perfume edge

もう、ちょっとすごい、すごすぎです。

伊藤俊治の『機械美術論』を左手に、背中に息子をおぶってダンス!

20世紀が人間(身体)=機械の時代だとすれば、21世紀はさしあたり人間(身体)=情報の時代なのであろうし、その点を無邪気にスルーする表現はすべからく無慈悲にスルーされることでしょう。

そことPerfumeは正面から向き合っていると思う。思う。思う。
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by kmr-sato | 2011-02-28 22:55

ダンサーについて考えた

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2/22火曜日に、振付家・ダンサーの方が数人拙宅に遊びに来てくれました。

そこでの細かい話の内容は省きます。ひとつのエピソードがとても印象に残ったので、それを発端にぼくがダンサー(振付家)について考えているひとつのことを、メモしてみます。

ぼくはその場で、We Danceで聞いた話をしました。室伏鴻のトークイベント、そこで黒沢美香が語ったことについてです。黒沢は、わたしはダンスの公演をみるときにそこに生命を見る、生き生きとしているものを見るのであり、そのことがダンスを見る喜びだ、と言いました(おおよそ、そういったことを)。「生き生きとしている」と言っても、表面的な意味でうまく踊れているかどうかはさして重要ではなくて、その場で苦闘しているその身体が、その苦闘故に生き生きとして見える、そういう身体の生が躍動する現場として、黒沢はダンスの公演を捉えているようでした。その話に、とても納得しながら、同時にぼくはこうも考えていました。

「ぼくにとって、いまそうした生命を見る喜びは、息子を見ることでかなりの程度満たされているように思う。そして、きっと、ここ(ダンスのイベント)にいない多くの人間は、そうした生に興味がないというのではなく、むしろ日々の暮らしのなかで、そうした生と向き合い、その度に黒沢がそしてぼくがダンスで見て感じるのと似た喜びを感じているのではないか。」

さらに、こうも考えました。

「さて、だとしたら、結論はこうなってしまう。ダンスを見なくても、日々の暮らしのなかで、例えば子育てでもしながら生を感じられたらそれでいい、すなわち、生活にダンスという芸術は凌駕されてもいい、と。20世紀以降、芸術が生活との境界線を曖昧にして、生活のなかに自らを浸透させていくと同時に、自らを生活と等価のものにしていった、その結果、生活と芸術がさほど区別がなかったり、生活に芸術が凌駕されるという局面が出て来た。として、ならば、では、生活があればいいのか。芸術は生活の前で敗北してしまうのか。生活にまさる芸術の価値というものは、どこに見いだされるべきなのか……」

で(言葉にすると長ったらしいですが、数秒でこう考え、さらに)、そのときにこの問いに対して自分が与えた返答はこうでした。

「生活に芸術が勝る点があるとしたら、芸術の抽象性というか汎用性において、ではないか。ぼくは息子がなにかのやり方を覚えるにつれ(あるいはそのために試行錯誤しているのを見るにつれ)感動してしまうのだけれど、それはぼくが彼の父親であるからなのかもしれない。彼の生を生として特別の眼差しを向けられるのは、そうした強い個人的なつながりがあるからなのかもしれない。それに対して芸術は、そうした個人的なつながりをいったん断ち切り(故に抽象的な身体を見る者の前に置き)、その状態で誰にでも感受出来るようなしつらえで(汎用的に)見る者に生を感受できるようにする。息子ではなく人間の生について感じたり、考えたりできること、芸術としてのダンスの可能性は、そうした点にあるのではないか。」

なんて考えたんだよって話を、鍋をつつきながらみんなにしたわけです。

すると、ある振付家から、こういう話がでました。(酔った最中で記憶したことなので、ぼくの創作が入ってしまっているかもしれませんが、あしからず)

「ぼくも同じようなことを考える。芸術が生活のなかに入り込んで、生活と化してしまうことが一番怖いことだと思う。例えば、ダンサーや振付家という人たちのなかに、農業に向かう傾向がある。田中民(民にサンズイが抜けています)など。」

この話を聞きながら、ぼくは身体にかかわる振付家・ダンサーは、身体の生命へと探求を進め、次第に、生命そのものへと興味が向かう、ということが彼らのなかで起きているのではないか、と考えていました。ぼくも最近、庭の草取りなんてことをしながら、よく生命の魅力を感じます。草のしぶとさ。根の生え方がいやらしいくらい抜けにくい草とか、綿毛のついた種をつくる草のこととか、本当にこさかしく、生きることにどん欲だなあなんて思います。だから、農業にいったん触れたダンサーや振付家が、その魅力に取り付かれてゆく。それはある意味で、先にあげた、ぼくが息子を通して感じている芸術を凌駕する生活の話と似ています。(ちなみに、ぼくは観劇をとるか子育てをとるか、結構迷うようになってしまいました。比べるものではないと思いつつも、「子育てよりよい公演をお願いします!」なんて気持ちで電車に乗ります。)

さらに、ダンサー・振付家が農業に向かうというエピソードから、彼らの特徴を植物的なものとして捉えてみてはどうかという気持ちが、今朝、わいて出て来たのでした。

ダンサー・振付家は、身体の生についてこだわるひとです。そのこだわりは、身体を、映像化されたものとか、商品のように欲望の対象とされたものとか、生と切り離されてしまったものとかと捉える傾向に対して、相当強い抵抗を示すところによく現れているように思います(ぼくはむしろ、そうした側面からダンスを開発してみた方がいいのではないかと最近考えているのですけれど。あまりそういう考え方は、ダンスの界隈では浸透していないように思います。むしろ演劇のなかではそうしたものの見方は、相当反省されているように見えます)。

彼らは植物のようです。生から切り離されたものとして身体を捉えるなんて、鎌で根を切り取られてしまった草花を扱うようなものだ。植物的存在である彼らはそう叫ぶでしょうか。

脱身体化しているのが、昨今の社会なのかもしれません。

イメージとしての身体、欲望の対象としての身体は氾濫していますが、身体それ自体、つまり生命としての身体はなるべくなら見ないようにしたいというのが、いまの社会の傾向といって過言ではないでしょう。

けれども、そこにあらがう側面がダンスという表現にはあるでしょう。「わたしのいまここで生きている身体を見なさい」ーーダンスはこう観客に語りかけているようです。

これは、正直、うざったいことなのかもしれません。あるいは、日々(育児や介護で)そうした身体とつき合っているのだから、外に出た時くらいそういう身体から離れていたい、ひとはそう思うものなのかもしれません。

もちろん、ダンスという芸術を通して生を見たいというひともいるでしょう。黒沢の話を通して、ぼくが書いた場合のように。けれども、それはいまの(過去においても)社会のなかできわめて少数のひとの欲望でしょう。

少数派だからだめなんて思いません。

大事なのは、この状況に向き合うことではないでしょうか(ぼくはそう思います)。

生命という根からいったん切り離されたかに見えるイメージとしての身体、そのイメージのなかに耽溺している最中にも、リアルの身体は息づいています。「刈り取られた草花」がさまざまな仕方で消費されるさなかにも「根」は生きていて「新しい草花」を伸ばしています。氾濫する「イメージとしての身体」を意識しつつ、「生としての身体」へと観客を導き、生を「生活」とは別の価値のもとでかいま見せること、そこにダンスが果たすひとつの仕事があるように思います。
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by kmr-sato | 2011-02-26 09:25

See Dance 十一日目 

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くもりの日
今日は、横浜に行けるか。
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by kmr-sato | 2011-02-20 10:37

KATHY (5)

ところで、最近の女性グループとしては、彼女たちのことも考えてみたい。

プロジェクト大山 キャッチ・マイ・ビーム!

考えてみたいのだけれど、ぼくはあまり知りません。もちろん、昨年トヨタ・コレオグラフィー・アワードを受賞したことは知っています。その日の上演も見ました。この成果からすれば、昨年の日本のダンスにおける最も評価されたグループのひとつということになるでしょうか。

ぼくは、彼女たちのダンスを見ていると、今日のダンスの状況というのがとてもよくあらわれているなと思う。

彼女たちのダンスは、ある独特なダンス言語を用いているように思う。それをモダンダンスといっていいのか、学校の体育ダンスの延長線上にあるもの、という気がする。彼女たちは、その自分たちの出自をかなり端的に(KATHYで用いた言葉で言い換えるならば、批評的にではなく)用いている。そのことが、今日のダンスの状況をよくあらわしていると思うのだ。

趣味の共同体の並立。

批評的に、過去のさまざまなスタイルを引用して、そのあり方を反省するということではなくて、それぞれのお好みのスタイルのなかで遊ぶ。

彼女たちに限ったことではなく、それぞれがそれぞれの趣味に閉じてそれぞれの好みのなかに閉じている、と感じることが多い。

閉じているので、分かるひとには分かる、けれども、分からないひとには分からない。という状況で、ある意味では、健全だ。ひとに迷惑をかけない。

けれども、それぞれが閉じた状況では観客もそれぞれの趣味に閉じるので、客の増加は望めない。それぞれの言語で語っている限り、自分以外はすべて外人になってしまう。

外人にも通じるようにするにはどうすればいいか、ということで、出てくるのは、言語を解さなくても分かるものである審美性であったりする。美しさか崇高さ。「美しいー」と叫び、「こわー」と驚く。ここには観劇する足る実質があるように錯覚するなにかがある。

よくも悪くも、この審美性に向かいがちというのが、表現のひとつの傾向であろう。

なんだか、See Danceの趣旨から離れてしまいましたが、どうしょう、こりゃこりゃと思うのです。

いやいや、やっぱりこれは「ダンスでなにが見たいのか」ということに関わる話ですよね。

でも、
批評的である他に道はない気がするんですけれど、それはぼくがダンスをアートとして考えているからなんでしょうか。

あと、ダンスの難しさに、自分の身体からなかなか自由になれないということがあると思います。

絵画の道具が絵の具や絵筆やキャンバスだとすれば、ダンスの道具は身体。だとして、この身体は生きていているものです。そして、しばしば、コレオグラファー=ダンサーだったりして、この身体というものと距離がとれなかったり、縛られたりしがちです。

このことが、ダンス固有の価値でもあると思うんですけれど、同時に、ダンスが他の芸術表現のような自由さを獲得できないところでもあるように思います。

KATHYは、黒ストッキングを顔にかぶり、手にもストッキングをはいて、肌を消すことで、そうした難しさから脱することが出来ていると思うのですが、どうでしょうか。

それは間違いなくKATHYの発明でした。KATHYによって、踊る身体は、ある意味、身体でありつつ、絵の具や絵筆、キャンバスのような位置におかれうるものになりました。

個性を奪われ、ただの「踊る女の子」として踊る身体は、ここでいわば「レディメイド」化しました(デュシャンは、絵の具や絵筆やキャンバスは、工業製品であり、既製品(レディメイド)ではないか、と言っています)。

身体に対して、新しいアプローチをとることが出来るようになった。

身体に対して、個性とか、意志とか、「かわいい/かわいくない」の評価とか、抱かなくてすむようになった。(いかに、ぼくたちがそうした点に縛られているのかを意識させられることになった。)

このことは、なかなかに革命的だったと思います(先達として、ロイ・フラー、オスカーシュレンマー、アルヴィン・ニコライがいます。彼らの考えが一枚岩だとも、彼らとKATHYの狙いが同じとも思いませんが)。

無意識的にそう思い抱かれてしまうダンサー=「踊り子」という立場からダンサーを引きはがすことが出来た。

そもそも踊り子が生きていた、踊り子=人形(欲望の対象)という存在の仕方を、意識化することとなった。(この意識化を別の角度から積極的に展開しているのがオタク系文化だろうし、その成果として、先にあげた様な、AKB48といったアイドルの存在とダンスがある)

そして、「踊り子なるもの」について意識的に反省するダンス表現が可能になったわけです。
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by kmr-sato | 2011-02-20 10:21

KATHY (4)

KATHYのことを考えたい。

ただし、その前に、前々回のエントリーでぼくが日本のコンテンポラリーダンスの女子グループから受け取る「ある大枠」についてもう少し触れてみようと思う。

先日、kiiiiiiiiが復活した。

We're the BAD

懐かしいなあとうれしく思ったのは、彼女たちの(こういってよければ)ビッチ振りだ。ライブでは冒頭に、「きーーーー」と絶叫する。まだ全然あったまっていない観客は、ほぼ全員どきっとさせられる。この曲なんかでもよくあらわれているように、パンクというか、チアーというか、声の出し方が激しい。激しい女の子。最近見ないキャラクターだ。最近と言えば、

モーニング娘。 女と男のララバイゲーム

AKB 48ポニーテールとシュシュ

Perfume ねえ

少女時代 Gee

などを見れば一目瞭然のように、ポップな世界では基本的に女の子は、「男に従うやさしくかわいい子」であることがデフォルトになっている。「モテ志向」の女性と言えばいいか。もちろん、社会の大きな流れとしては、それがメインストリームとは言いがたい面があり、後で触れるように同性集団内部での相互評価に(とくに女性は)大きなウエイトがある社会なのかもしれない。

「モテ志向」の歌とかダンスとかがある一方で、kiiiiiiiの「悪さ」は、そうしたもののもつ通念のこわばりをもみほぐしてくれる気がして楽しい。

では、こうした見取り図をつくったうえでKATHYはどこに位置づけられることになるのだろう。

コンセプトから見るに、KATHYのうちにある女の子像というのは「KATHYという巨大な力に支配されている女の子三人」であり、支配者からの指令に応えようとしつつ、気づけばおかしなことになってしまう、そうした女性たちである。そこには、kiiiiiiiに見たのとは異なる「悪さ」がある。

「悪さ」と呼んでは見たが、本人たちが「悪さ」を性格としてもっていたり、「悪さ」を演じてみたりするというのではない。むしろ「気づいたら腐っていた」とかそういう「傷み」に近いものだ。そうした、従うものとの葛藤の中で「傷んで」ゆくさまが、KATHYを見ることの醍醐味だとぼくは思っている。

もう一度見てみましょう。

見ていると、先にあげた「大枠」のことが気になってくる。
KATHYは、こういう格好だけれど、美しい。それは、彼女たちが踊れるところに由来する。
踊れるということは、テクニックを習得しているということだ。「お稽古」の幼少時代を過ごしたということだ。

そのさまが、「従うものとの関係」と連動する。踊ることは、楽しいばかりじゃなくて、稽古に耐え求めに応えることでもあり、その息苦しさ、つらさ、つらさを通した喜びを含んでいる。

だから、せつない。

KATHYは、そうして「踊る女の子」を批評している。(踊る女の子は「従属する女性」全般のメタファーであり、自立した女性でも、過去に(とくに幼少期に)そうした女性であったことがあるならば、すべての女性がそうであったろう、すべての女性のある側面のメタファーとなりうる、もちろん、ジェンダーで簡単に分けるのも意味はなくて、「従属する女性」に自分を見たり、自分の生き方を振り返らされるすべての男性へのメッセージでもある)
そこに、圧倒的なオリジナリティと存在の魅力がある、と思う。

KATHYには、批評性がある。
それは、今日の芸術の必須条件。

当たり前のことだけれど、案外希有なものでもある、とくにダンスの分野では。

けれども、批評を通して状況の外部にたつのでもない。
「上から目線」というか、えらそーではない。

しばしばほとんど「突如」といった仕方で会場にあらわれ、場に介入して、「傷み」を散らして、陶酔感を残して、去って行く。

そのすべてがコンセプトであるけれど、説明をことらさら要しないのだ。

KATHYは、数少ない、ダンスにおけるコンセプチュアル・アートである。
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by kmr-sato | 2011-02-20 09:40


ダンスについて書きます


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