2011年 02月 19日 ( 2 )

KATHY (3)

こんにちは。

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See Dance

なかなか集中することができず、滞ることしばしばですが、
今日も、ひとり、「ダンスを見ること」をめぐって書いてみたいと思います。

いま、昨日書いた部分をアップしました。下のエントリーを先にお読みの上、これからの文章におつきあいください。

いやー、リアルにWD見に行けなくなりそうです。せめて、室伏鴻のセクションだけでも、と思っていますが、……どうなるか分かりません。

……

そして、
ダンスについて書くブログなのですが、毎朝妻と「夫婦読書会」を行っておりまして、今日は「三日坊主」とは呼ばせない、なんと四日目を迎え、順調に続いています。そこで、出た話をまず書き散らしてもよいでしょうか。

今日は、p. 25-28(岩波文庫)を読んでいて、そこではこうしたことが論じられている。

「生活と社会とが我々各人から要求するところのものは、現在の境地の輪郭を識別するところの絶えず気を張っている注意であり、それはまた、我々をそれに適応させることができるようにする肉体と精神との一種の弾力である。緊張と弾力、それこそ生が発動させている互いに補足し合う二つの力である。」(pp. 25-26)

と、ベルクソンは「緊張と弾力tension and elasticity」という二つの力が発動した状態をひとは、社会や生活のなかで絶えず求められていると説く。つまり、社会においてひとは、いつも気を張って注意を配り、他人との接触に対して柔軟になっていなければならないというのである。他人との意志のかわし合い、そこでは単に習慣にまかせた一致ではなく、むしろ互いを意識し互いに適応しようと努力する必要がある。

「人と人との間の出来合いの一致だけでは社会にとって十分ではない。それは相互的適応の絶えざる努力を求めるであろう。だから性格なり精神なりないしは肉体なりのこわばりはすべて社会の懸念の種になる。」(p. 26)

例えば、入って一週間とたたないコンビニ店員が客に対応するさまというのは、うまく行って「出来合いの一致」といったものだろう。それだって、お客とのやりとりが出来ているといえば出来ている。けれども、社会が求めるのはそのレヴェルではない。「もてなし」というか、相手の多層的なニーズ(単純に欲しい品物が手に入るということのみならず、相手の自分に対する応対とか)に応えるには、先にみたように緊張感とかしなやかさ(弾力性)が必要だし、それが欠けていれば、それは「こわばり」として伝わる。ここに、ベルクソンは笑いの発生源を見る。そして、この発生源は単に笑いを喚起するというばかりではなく「社会の懸念」があらわれるポイントでもある。

つまり、しなやかさを求める社会においてこわばりを見せた人に、「社会の懸念」をともないながら起こすもの、一種の批判の機能(「笑いはそれ[こわばり]の懲罰なのである」とあります)としてあるのが、ベルクソンのいう笑いなのである。

と、前振りが長くなってしまいましたが、

昨日、

Togetter 吉田豪の唐沢俊一インタビューに関してのtwitterでのやりとり

をなんとなく読んでしまったのですが(ちなみに、ぼくはtwitterをほとんど読まないしちょっとしかツイートしない、オールドタイプでして、こうしたやりとりにあまり慣れていません)、こうしたやり取りは、「社会の懸念」というか(個人的かもしれない)「懸念」を、相手にぶつけて批判しているわけですけれど、その意味で、ベルクソンの「笑い」論をかすめていると思うのですけれど、結果的にはあまり笑えない(笑うということが起きていない)もののように思います。

相手の振る舞いを「こわばっている」と批判して笑い、しかし、批判して笑う当のひとの振る舞いも「こわばっている」ように見えるのです。「あいつ馬鹿」と笑うことは(そう発言した瞬間はその笑いは機能しているかに見えるのですけれど、次第に)自らの硬直性を際立たせることがあって、笑っているひとが笑われる状態へ陥ることってしばしばあると思うのです。問題は、そうして「笑われるA」→「Aを笑うB」→「笑われるB」→「Bを笑うC」……といったサイクルが起こることで、つまり、笑い=批判だとした場合、その批判は確かに一面の真実ではあるかもしれないけれど、別の側面から批判した等の人物の不十分さがあらわになるかもしれず、こうして、批判の祭りが発生して、やがて収束して行くわけです。このサイクルのうちにネットコミュニケーションの健全性をみることもできるでしょうし、まさにベルクソンのように「緊張と弾力性」を社会に発生させるものとして、これをとらえることも出来るかもしれません。

「(笑いは)社会的からだの表面に機械的こわばりとしてとどまっていそうなものをことごとくしなやかにするのだ」(p. 27)

あ、っとなんだか、説明しようとしていたことから脱線してしまいました。ぼくはでも、こうしたサイクルをあまり笑えないなあと思ったのです。先にあげたtwitterのやりとりは、その過程が進んで行くにつれて、そのなかでひとつの「こわばり」の消去が果たされたとはあまりいえなくて、かなり相互に傷をつけ合う闘いをして、端でひとがそれをみて「面白い」といったりするけれど、あまり笑えないなあ、と思うんです。そうそう、こう思うということです、「笑う振る舞いもそれ自体がこわばりのないものでないといけない」のではないか、と。

もちろんこれは、「笑い」論からみた、ということことなんですけれど。

なんとなく、さまざまなことが思い出され、自戒も込めて、そういったことを考えた次第です。

KATHYからずいぶん遠のいてしまった。


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by kmr-sato | 2011-02-19 14:03

KATHY (2)

去年のKATHYの活動のひとつが、これだった。
KATHYの魅力は(コンセプトやタスク的ルールなどはいまは置いておくとして)、
かわいさとグロテスクさ、陶酔と不安、歓喜と暴走というか、ふたつの相反するものが共存していて、その両方を味わっているうちにくらくらしてくるところにある、とぼくは思う。

そんなことを思っていると、次第に別の思いがわいてくる。
独特の少女性(ガーリー)。

少女性といえば、(あまり使われなくなった言葉だけれど)2000年代のコンテンポラリーダンスのなかでは、かなり重要なポイントだったといっていいだろう。

康本雅子みたいなソロを中心とした作家もそうだけれど、とくに女性だけのグループというが、さまざまな登場して、そこにはある大枠では似たところのあった気がするけれど、けれども、それぞれは個性も示していた。

そうした「少女のダンス」を牽引した存在の筆頭としてあげるべきは、

珍しいキノコ舞踊団

だろう。去年のこのCMはシンプルに彼女たちの女の子性をよく示している。

端的にいえば「明るく」て「前向き」で「ちょっとユニーク」で「かわいい」ものが好きな、どっちかというと「おしゃれ」な、あまり「モテ志向のない」女の子。同性の内部で盛上がっている感じ、別に男性を無視したり蔑視しているわけではないけれど。

ダンスというものは、気分の高揚が自発的な仕方で生まれていることが求められる。ただ歩くのではなくてスキップしている状態、それをダンスの萌芽とすれば、なぜスキップしてしまうのかという点が重要であり、この

歩く→スキップ

という移行は、ミュージカルにとって常に懸案事項となるところではあるのだけれど、ミュージカルに限らず、ダンスというジャンルにとって、かなり深い問題をはらんだことがらなのではないだろうか。

とすると、「明るく」て「前向き」な女の子というのは、とても大事なポイントではあろう。音楽でもかけるとうきうきしてきて踊ってしまう。そんな気分を生きている女の子。珍しいキノコ舞踊団とは、そうした面をもったグループだ、とぼくは思う。

あと、重要なのは、気分の高揚が「ダンス」というフォーマットにおさめられるだけの裕福な家庭に育った(ように見える)こと。バレエなり、モダンダンスなりを「お稽古」してきた女の子。良家の子女なのだ。この少女性は、日本のコンテンポラリーダンスにおける女性グループを考えるうえで、無視できない起点(先に述べた言い方を踏襲するならば「ある大枠」)であるように思う。

そして、例えば、ほうほう堂という存在がいて、矢内原さんの作品に「チョコレート」という女の子二人が踊る作品があり、pinkという女の子三人組がいたり、など、「女の子たちが踊る」というところにさまざまなアプローチがあった(し、もちろんいまも継続中である)。


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by kmr-sato | 2011-02-19 11:39


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