『10+1』に書いたものたち
震災以後、何も書く気が起きず(いや、本当はそれでも三月には100枚くらいの原稿をいろんな種類書いてはいました、男性ファッション誌『HUGE』に寄稿したり、しかし、こうしたネット上に文章を書く気がまったく起きませんでした)、久しぶりに投稿します。
とりあえず、いまはartscapeなどでお仕事をしている編集者さんから、『10+1』で書いたものがウェブ化されたと聞いていたのに、どこにも宣伝しなかったので、宣伝しますね。
「コレオグラフィとしての都市・東京」(『10+1』No. 47, 2007)
かなり早い時点でのChim↑Pom評です、少なくともまとまった量としては、ぼくが書いた最初のChim↑Pomについての原稿です。
それにしても、今日見たヘンリー・ダーガーの素晴らしいこと(@ラフォーレ原宿)!
フェルメールとかシャガールみたいに、十年後くらいには、超メジャー的な人気を得るのかもしれないな。見ているとふかーい気持ちになる。ふかーく、自分のなかのロリータコンプレックスのなかに溺れて行きそうになる。
あ、そう、そこで菊地成孔さんが、ダーガーみたいな徹底した引きこもりは、ネット的なコミュが発達した社会では不可能だ、みたいなコメントを展示会場の出口手前に吊るしてあったコメント文で書いていたけれど、そうでもあり、そうでもないと思った。菊地さんの文章(思考)は、ある小さい枠をものごとに嵌め込んで、その枠で縁取られた世界を「世界」として語るきわめてエレガントな語り口に魅力のほとんどすべてがあると感じるのだけれど(素晴らしい批評文というのは、ほとんどすべてそういうものだとも思うのだけれど)、その「枠」がひとを縛るところに発生する快楽についても理解しているつもりだけれど、でも、もうそういう「枠」から自由でいたいなとも思うのだ。ダーガーは可能だ。絶対にそうだ。3/11以降、ネット上にほとんどなにも書き残さなかったからと言って、ぼくの人生に何もなかったはずはない。いろいろとあって、ただネット的にそれが公開されていないだけだ。公開されていないものだらけなのじゃなかろうか、人生の大部分は。ダーガーの思いの強さに誰もが打たれる展示だと思うのだけれど、その強い思いが「もうない」などと思う必要はまったくないのではないだろうか。ぼくはダーガーに打たれ、そして未来のダーガーを待っている自分に気づいた。
とりあえず、いまはartscapeなどでお仕事をしている編集者さんから、『10+1』で書いたものがウェブ化されたと聞いていたのに、どこにも宣伝しなかったので、宣伝しますね。
「コレオグラフィとしての都市・東京」(『10+1』No. 47, 2007)
かなり早い時点でのChim↑Pom評です、少なくともまとまった量としては、ぼくが書いた最初のChim↑Pomについての原稿です。
それにしても、今日見たヘンリー・ダーガーの素晴らしいこと(@ラフォーレ原宿)!
フェルメールとかシャガールみたいに、十年後くらいには、超メジャー的な人気を得るのかもしれないな。見ているとふかーい気持ちになる。ふかーく、自分のなかのロリータコンプレックスのなかに溺れて行きそうになる。
あ、そう、そこで菊地成孔さんが、ダーガーみたいな徹底した引きこもりは、ネット的なコミュが発達した社会では不可能だ、みたいなコメントを展示会場の出口手前に吊るしてあったコメント文で書いていたけれど、そうでもあり、そうでもないと思った。菊地さんの文章(思考)は、ある小さい枠をものごとに嵌め込んで、その枠で縁取られた世界を「世界」として語るきわめてエレガントな語り口に魅力のほとんどすべてがあると感じるのだけれど(素晴らしい批評文というのは、ほとんどすべてそういうものだとも思うのだけれど)、その「枠」がひとを縛るところに発生する快楽についても理解しているつもりだけれど、でも、もうそういう「枠」から自由でいたいなとも思うのだ。ダーガーは可能だ。絶対にそうだ。3/11以降、ネット上にほとんどなにも書き残さなかったからと言って、ぼくの人生に何もなかったはずはない。いろいろとあって、ただネット的にそれが公開されていないだけだ。公開されていないものだらけなのじゃなかろうか、人生の大部分は。ダーガーの思いの強さに誰もが打たれる展示だと思うのだけれど、その強い思いが「もうない」などと思う必要はまったくないのではないだろうか。ぼくはダーガーに打たれ、そして未来のダーガーを待っている自分に気づいた。
by kmr-sato
| 2011-05-02 20:47