ダンサーについて考えた

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2/22火曜日に、振付家・ダンサーの方が数人拙宅に遊びに来てくれました。

そこでの細かい話の内容は省きます。ひとつのエピソードがとても印象に残ったので、それを発端にぼくがダンサー(振付家)について考えているひとつのことを、メモしてみます。

ぼくはその場で、We Danceで聞いた話をしました。室伏鴻のトークイベント、そこで黒沢美香が語ったことについてです。黒沢は、わたしはダンスの公演をみるときにそこに生命を見る、生き生きとしているものを見るのであり、そのことがダンスを見る喜びだ、と言いました(おおよそ、そういったことを)。「生き生きとしている」と言っても、表面的な意味でうまく踊れているかどうかはさして重要ではなくて、その場で苦闘しているその身体が、その苦闘故に生き生きとして見える、そういう身体の生が躍動する現場として、黒沢はダンスの公演を捉えているようでした。その話に、とても納得しながら、同時にぼくはこうも考えていました。

「ぼくにとって、いまそうした生命を見る喜びは、息子を見ることでかなりの程度満たされているように思う。そして、きっと、ここ(ダンスのイベント)にいない多くの人間は、そうした生に興味がないというのではなく、むしろ日々の暮らしのなかで、そうした生と向き合い、その度に黒沢がそしてぼくがダンスで見て感じるのと似た喜びを感じているのではないか。」

さらに、こうも考えました。

「さて、だとしたら、結論はこうなってしまう。ダンスを見なくても、日々の暮らしのなかで、例えば子育てでもしながら生を感じられたらそれでいい、すなわち、生活にダンスという芸術は凌駕されてもいい、と。20世紀以降、芸術が生活との境界線を曖昧にして、生活のなかに自らを浸透させていくと同時に、自らを生活と等価のものにしていった、その結果、生活と芸術がさほど区別がなかったり、生活に芸術が凌駕されるという局面が出て来た。として、ならば、では、生活があればいいのか。芸術は生活の前で敗北してしまうのか。生活にまさる芸術の価値というものは、どこに見いだされるべきなのか……」

で(言葉にすると長ったらしいですが、数秒でこう考え、さらに)、そのときにこの問いに対して自分が与えた返答はこうでした。

「生活に芸術が勝る点があるとしたら、芸術の抽象性というか汎用性において、ではないか。ぼくは息子がなにかのやり方を覚えるにつれ(あるいはそのために試行錯誤しているのを見るにつれ)感動してしまうのだけれど、それはぼくが彼の父親であるからなのかもしれない。彼の生を生として特別の眼差しを向けられるのは、そうした強い個人的なつながりがあるからなのかもしれない。それに対して芸術は、そうした個人的なつながりをいったん断ち切り(故に抽象的な身体を見る者の前に置き)、その状態で誰にでも感受出来るようなしつらえで(汎用的に)見る者に生を感受できるようにする。息子ではなく人間の生について感じたり、考えたりできること、芸術としてのダンスの可能性は、そうした点にあるのではないか。」

なんて考えたんだよって話を、鍋をつつきながらみんなにしたわけです。

すると、ある振付家から、こういう話がでました。(酔った最中で記憶したことなので、ぼくの創作が入ってしまっているかもしれませんが、あしからず)

「ぼくも同じようなことを考える。芸術が生活のなかに入り込んで、生活と化してしまうことが一番怖いことだと思う。例えば、ダンサーや振付家という人たちのなかに、農業に向かう傾向がある。田中民(民にサンズイが抜けています)など。」

この話を聞きながら、ぼくは身体にかかわる振付家・ダンサーは、身体の生命へと探求を進め、次第に、生命そのものへと興味が向かう、ということが彼らのなかで起きているのではないか、と考えていました。ぼくも最近、庭の草取りなんてことをしながら、よく生命の魅力を感じます。草のしぶとさ。根の生え方がいやらしいくらい抜けにくい草とか、綿毛のついた種をつくる草のこととか、本当にこさかしく、生きることにどん欲だなあなんて思います。だから、農業にいったん触れたダンサーや振付家が、その魅力に取り付かれてゆく。それはある意味で、先にあげた、ぼくが息子を通して感じている芸術を凌駕する生活の話と似ています。(ちなみに、ぼくは観劇をとるか子育てをとるか、結構迷うようになってしまいました。比べるものではないと思いつつも、「子育てよりよい公演をお願いします!」なんて気持ちで電車に乗ります。)

さらに、ダンサー・振付家が農業に向かうというエピソードから、彼らの特徴を植物的なものとして捉えてみてはどうかという気持ちが、今朝、わいて出て来たのでした。

ダンサー・振付家は、身体の生についてこだわるひとです。そのこだわりは、身体を、映像化されたものとか、商品のように欲望の対象とされたものとか、生と切り離されてしまったものとかと捉える傾向に対して、相当強い抵抗を示すところによく現れているように思います(ぼくはむしろ、そうした側面からダンスを開発してみた方がいいのではないかと最近考えているのですけれど。あまりそういう考え方は、ダンスの界隈では浸透していないように思います。むしろ演劇のなかではそうしたものの見方は、相当反省されているように見えます)。

彼らは植物のようです。生から切り離されたものとして身体を捉えるなんて、鎌で根を切り取られてしまった草花を扱うようなものだ。植物的存在である彼らはそう叫ぶでしょうか。

脱身体化しているのが、昨今の社会なのかもしれません。

イメージとしての身体、欲望の対象としての身体は氾濫していますが、身体それ自体、つまり生命としての身体はなるべくなら見ないようにしたいというのが、いまの社会の傾向といって過言ではないでしょう。

けれども、そこにあらがう側面がダンスという表現にはあるでしょう。「わたしのいまここで生きている身体を見なさい」ーーダンスはこう観客に語りかけているようです。

これは、正直、うざったいことなのかもしれません。あるいは、日々(育児や介護で)そうした身体とつき合っているのだから、外に出た時くらいそういう身体から離れていたい、ひとはそう思うものなのかもしれません。

もちろん、ダンスという芸術を通して生を見たいというひともいるでしょう。黒沢の話を通して、ぼくが書いた場合のように。けれども、それはいまの(過去においても)社会のなかできわめて少数のひとの欲望でしょう。

少数派だからだめなんて思いません。

大事なのは、この状況に向き合うことではないでしょうか(ぼくはそう思います)。

生命という根からいったん切り離されたかに見えるイメージとしての身体、そのイメージのなかに耽溺している最中にも、リアルの身体は息づいています。「刈り取られた草花」がさまざまな仕方で消費されるさなかにも「根」は生きていて「新しい草花」を伸ばしています。氾濫する「イメージとしての身体」を意識しつつ、「生としての身体」へと観客を導き、生を「生活」とは別の価値のもとでかいま見せること、そこにダンスが果たすひとつの仕事があるように思います。
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by kmr-sato | 2011-02-26 09:25


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