ルーブ・ゴールドバーグのことファイナル(1)

おはようございます。See Dance 七日目です。

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昨日は結局、息子と遊んでいる間に時が経ってしまいました。夕方一緒にお風呂入ったり。「おかあさんといっしょ」見たり。

今朝は、雪のこともあって(写真は外の様子。八王子では15センチほど積もりました。さっき撮ってきたばかりですが、雪まだ溶けてない)昨日走れなかったので、今日は北野駅まで、iphone片手に。

その後、懸案だった夫婦読書会を決行。8:30から1時間(すごい身の詰まった午前だ!)。読むのは、ベルクソンの『笑い』。第一章から、ぼくが英語訳を読み、妻がフランス語をチェックし、林達夫訳を参照する。今日一番面白かった文章は、

「常に感じ易く、生の合唱に調子が合っており、あらゆる事件が感情的な共鳴をともなうようになっている心の人びとは、笑いを知ることもなければ、理解することもないであろう。」(14)

かな。笑い論なのに「生の合唱」を代表例として音楽を比喩的にも実際的にも取り上げることが多いベルクソン。

「ダンスしている人々が我々に直ぐさま馬鹿らしく見えるためには、ダンスが行われているサロンの中で、音楽の音に我々の耳を塞ぎさえすれば十分である」(15)

なんてあたりは、オーディオ/ビジュアルの関係(とくに映画とか)について考えたりした。まんま『アフロディズニー』的視点だけど、やはりこのあたり時代のものの考え方として興味深い。ちなみに、『笑い』は1900年の著作です。

と、大いなる脱線から始まりましたが、See Dance、今日も開催します。

ダンスが好きだ、ダンスを楽しみたい、面白がりたい、フィジカルにまた知的に。

でも、別に、ジャンルとしてのダンスに縛られる気もない。「ダンスだな!」と思えるものに執着して、その魅力の謎に少しでも(昨日よりも)迫れたらそれでいい。

自分の「ダンスを見るまなざし」を確認したいのです。

えーっと、いろいろと「それは、こういうわけで」と注釈を加えたくなりますが、飛ばします!

……

さて、ぼくは以前のエントリーで、
////////////////
なぜひとはチェイン・リアクションを見たがるのだろうか?

この問いに関して、暫定的ですが、解答を三点考えてみました。

(1)「生命」を見たいから
(2)異質なるものの生命の中継を見たいから
(3)世界を異質なるものの生命の中継として見たいから
////////////////

と書き、(2)の途中まで進んだと思います。その続きからはじめましょう。

Mia Doi Todd "Open You Heart"

を見たところまででしたね。あらためて、これ見てもらえるでしょうか。いかにも、ゴンドリーらしい作品。カラフルでかわいい。歌手が、家から出てくると彼女を追いかけるように世界が変化していきます。その変化をさしあたり、「ルーブ・ゴールドバーグ」的(かなり拡大解釈ですが)と見てみることにします。ここでは、色の連鎖が、同じ色とか補色とか、「チェイン・リアクション」として展開していると見ることができます。ゴンドリーの特徴と言えると思うのですが、日常のありふれた状況にちょっと手を加えることで、そこに日常では起こりえない出来事が、しかし、あからさま非日常(日常からの逸脱)ともいえない微妙な距離で展開していきます。

ありえないチェイニングがそのありえなさを保ちつつ、スムースにつながっているのがゴンドリーの表現だとしましょう。ところで、「チェイン・リアクション」系の表現では、この「ありえなさ」と「スムース」のどちらに力点を置くかで、起こることが変わってくると思われます。「スムース」により近づいているのは、例えば、こんな作品。

The Chemical Brothers "Star Guitar"

ただの車窓の景色のようですが、目に飛び込んでくる線路脇の小屋とか電柱とかがやたらと音楽に合っています。途中から気づくと思うのですが、これはCGなんですね。ああ、CGかー、じゃあこんなことくらいちょちょいのちょいだわ、と思ってしまいます(ここがスムースの魔法が脱魔術化され消極的な効果を生じさせてしまうところ)が、それでも、まあ音楽に景色がノっているみたいで、面白いは面白い。

と、考えると、やはりある程度の「ありえなさ」(異質なもの同士の出会い)がなければ面白くないということですよね。

これがひとつの結論なのですが、ちょっと脱線します。

さて、では、こういうのだとどうでしょう。

MGMT "KIds"

冒頭に、You Tubeのような枠が出てきますが、ビデオのつくりとしては、顔をペインティングした小ミュージシャンらしきメンツがパフォーマンスする合間に、音楽に合った(合わせた)ダンス映像がインサートされるというものです。

面白い、また現代的な映像だとも思います。
けれども、なんだか、ぼくはこの映像を見て、不満な気持ちになりました。
そしてなぜそう思ったのか、考えてみました。
ぼくの結論はこうです。

このMGMTはロックをダンスミュージック的に解釈しているバンドだと理解できると思うのですが、そのディスコ性、それがこの映像を生み出していると考えられはしないでしょうか。

ディスコ音楽は、あるベースになるリズムが鳴っていて、そのBPMに合うものであれば、たいていの音楽要素は、その上に乗せることができます。それはとても意外なものを持ち込んでくる場合でもそうです。そして、実際、この映像では、そうした意外なものの持ち込みが随所で起こっています。

それなのに、「ありえなさ」(異質なもの同士の出会い)を感じないのです。どんな要素も、折り目正しく全体のなかに吸収され、おとなしくなってしまっている、と感じてしまうのです。壁紙におどる図柄がどんなに突拍子のないものでも、案外静かにそこに収まっているみたいなことです。

ダンス(ダンスミュージック)・ベースで「チェイン・リアクション」を構想するとでてくるものは、そうした安定感をもってしまうことになるでしょう。(実は、こうした事柄を考えるときぼくがいつも思い出すのは快快のことです。「Shibahama」はまさにこうした状態についての演劇だったのではないでしょうか)

こうした点、息子と「おかあさんといっしょ」のOPを見ていたときに思ったのです。(笑)

あのOPでは「折り紙で出来たものたちが次々と変身してゆく」というイメージが展開されるのですが、紙ではなくCGで作られています。CGは「折り重なり」とか「さっきまでのかたちがべつのかたちへと変化した」といった重層性(奥行き性)や変容性を、あまりに美しく処理してしまうので、あまり実感としてその事態を受け止められないのです。こりゃ、子供の教育的にはどうなのかな、と思いながら見ています。

しかし、ぼくはOLDなのかもしれません。

新しい感性は、CGのなかに巧みに折り紙の性格を読み取るのでも、CGを折り紙として楽しむのでもなく、CG的表現をそのままそれとして享受しているのかもしれません。

その際生じている「チェイニング」に対する心の持ちようは、OLDなぼくのと相当違うものになっているはずです。

おそらく、ぼくの価値観でとらえていてもらちの開かない事態が起こっているのだろうなあと、思います。それでいて、ぼくは相変わらず、「ありえなさ」や変身に魅力を感じてしまうのですが。

(このあたりのことは、以前ちょっとだけとりあげたARなどをちゃんと考える必要があるということなのかもしれません。二次元と三次元の関係について、映像と身体の関係について)

と、脱線が長くなったので、(3)については、別エントリーにしたいと思います!
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by kmr-sato | 2011-02-16 11:12


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