なぜひとはルーブ・ゴールドバーグ・マシーンを見たがるのか?
おはようございます。
昨日から、NIke+ GPSと一緒にジョギングをはじめました。
今朝(6:50-)も。さむー。5キロほど。radiko.jpでJ-wave。二週間ぶりに戻ってきた別所哲也は鼻声でした。
今日は雨だそうです。ジョグの帰りには確かにちよっと降っていました。雨はでも春の兆し。
今日もSee Dance、たくさんダンスを見ていきましょう。今週は、ダンスウィーク!(個人的に)
さて、今日のテーマです。
なぜひとはチェイン・リアクションを見たがるのだろうか?
この問いに関して、暫定的ですが、解答を三点考えてみました。
(1)「生命」を見たいから
(2)異質なるものの生命の中継を見たいから
(3)世界を異質なるものの生命の中継として見たいから
(1)「生命」を見たいから
とても大きな話になりそうな解答です。そして、多分、そうしなければ語れないことであると思います。(ベルクソン「笑い」ことを以前ちょっとあげましたが、例えば、この時代のこうした著作のなかで考察されている生命の哲学は無視できないはずです。)
けれども、ちょっとその辺りの理論的なことは、いずれ考えることにして、いまここで行われているのは「イベント」=お祭りですから、こうした視点から感受できる興味深いポイントだけを指摘して、盛り上がってみる、ということに集中しましょう。
ルーブ・ゴールドバーグ・マシーンは、「生命」を見ることになる。そう思いませんか?
「ピタゴラ装置」
機械=生体。生体のような機械。それは、血液を次々とさまざまな部位に運んでゆく血管のように、玉を運んでゆくことで、ぼくたちはそこに生きたものの姿を一瞬(もちろんフィクショナルなものと分かっていながら)見てしまいます。それが面白いのではないでしょうか。
再度そう思って、フィシュリ・アンド・ヴァイスを見てみましょう。
Fischliand Weiss The way things go
彼らの「マシーン」は、科学的な変化を起こして進んでいきますので、物理的でありつつ、ときに生命を感じさせるものです。
さて、「Chain Reaction」展カタログでは、こうした「マシーン」の性格をダンスに引きつけて考えている作家のコメントがありました。ダイアナ・クーパー。彼の考えに、しばし、耳を傾けることにしましょう。
「 あることが別のことを導くというチェイン・リアクションの考えは、人間の身体と心が機能する仕方に似ています。ある意味で、私の心は、これらの問いに応答するために、チェイン・リアクションのメカニズムを用いているところです。つまり、ある思考が別の思考を導き、ということが引き続いてゆきます。即興的なダンスといたずら書きのドローイングの両方とも、チェイン・リアクションのような特質を有しており、私に影響を与えています。即興的なダンスは、避けようもなく身体的ですし、身体と心は、既にあったものにさらに付け加えられる連続する動きを数珠つなぎにしてゆくことに従事しています。即興を通してダンスを創造するとき、協調ならびに遊びの感覚が存在しています。Diana Cooper: The Idea of a chain reaction, that one thing leads to another, resembles the way the human body and mind function. In a sense, my mind is using the mechanism of a chain reaction to respond to these questions: one thought is leading to another and so on and so forth. Both improvisational dance and doodle-based drawing have chain reaction-like qualities and have influenced me. Improvisational dance is unavoidably physical, the body and mind is involved in stringing together a succession of movements that build on preceding ones. When creating dance through improvisation there is a give and take and a sense of play. 」(Chain Reaction, pp. 47-49)
「即興的ダンス」は「チェイン・リアクション」である、とはなかなか啓発的な発言ではないでしょうか。いや、はじめて見たときには、そんなことイメージしたかもしれないけれど、あっという間に、忘れ去ってしまった、そんな事柄かもしれません。クーパーがいいたいだろうことを、ぼくなりに噛み砕くと、即興的ダンスのなかで、身体と心は、瞬時に互いをアクションを起こしてきた対象とみなし自分の次のアクション(リアクション)を試みる、そうした関係にあるということでしょう。
A アイディア(心)
↓
B 実行(心→身体)
↓
C 心のリアクションとしての動作(身体)
↓
D Cに対するリアクションの必要(心)
↓
E 動作のリアクションとしてのアイディア(心)
↓
F 実行(心→身体)
↓
G 心のリアクションとしての動作(身体)
……
みたいなことではないでしょうか。(ちょっとややこしいですけれど)
さて、こうしたリアクションし合う心身の関係に似た関係が、コンタクト・インプロヴィゼイションの二組のなかで起きていると考えることは可能でしょう。そうであるならば、コンタクト・インプロヴィゼイションとは、ひとつの「チェイン・リアクション」なわけです。
これっていうのが見つからなかったので、サンプルとしてContact Improvisation with Stephanie Nugent
おそらく大事なことは、動作が手前の動作に対する「リアクション」であることではないでしょうか。「生命」を見るということは、かならずしも単体の生き物の生き生きとしたさまに感じるものではないかもしれません。なにかのリアクションとしてある欲望が、ある感情がそこに存在しているときに、リアリティのある生命のかたちがたちあらわれる、と考えるべきなのではないでしょうか。そういう意味では、ここにあるのは関係の表現なのです。「コンタクト・インプロヴィゼイション」が魅力的になっているのは、次々とうまくことがすすんでいる場合とは限らないのは、ここにポイントがあるのかもしれません。「関係」が意識されないほどに、するするとうまくいってしまうと、コンタクトの意味がなくなってしまうのです。ダンサーとしては、そうした美しさを目標にしたくなるかもしれませんが、見ている側としては、その美しさは、「はらはら」が減退してしまうがゆえに、望ましいものとはいいがたいところがあります。そんなことを思いながら、映像を見てみましょう。
強調しますが、アクションがリアクションであることを通して、生命は舞台にあらわれるのです。それを教えてくれているのは、身体表現サークルであり、contact Gonzoです。
(2)異質なるものの生命の中継を見たいから
なんだか、すんごく長いエントリーになってしまいそうな予感がしますが、ともかく続けます!
「関係の表現」ということに関わるのですが、「チェイン・リアクション」が面白いのは、「異質なるもの」の間で「生命」の「中継」がなされるからではないでょうか。
いわゆる「ピタゴラ装置」しかり、「The way things go」しかり。普段出会わないもの同士がたまたま出会い、ことを受け渡し続けている、というところに、魅力があるのです。その点で、「チェイン・リアクション」はシュルレアリスムの精神をいくぶんか携えている必要があります。「ミシン」と「こうもり傘」が出会ってこそ、「チェイン」することは面白いのです。その(シュルレアリスムの)程度が低くなると、見ている者は退屈になってきます。
おかなしつながり、それにもかかわらずたしかにつながってゆくこと。
これは、突飛な話に思われるかもしれませんが、映画でいう「モンタージュ」にそっくりです。
ということで、ザ・モンタージュ、エイゼンシュテイン「戦艦ポチョムキン」を見てみましょう。
Battleship Potemkin -Sergei Eisenstein
モンタージュは、別々に撮った、その意味で無関係ともいえる映像をつなげることで、ひとつのシーン、ひとつの意味を見る者に読み取らせる技法です。例えば、この動画の最初のカットでは
A「女が乳母車で階段を下りられずに四苦八苦している」 次は
B「階段を銃を前に向けた兵隊たちが並列して降りている」
わけですけれど、AとBは必ずしも、結びつきが自明であるわけではありません。たまたま並んでいるともいえる。しかし、その一方で、当たり前のように、見る者はそれをつながっているものとして見るわけです。ここには、モンタージュ映画独特の「チェイン・リアクション」が発生しているととらえることができます。その独自性については、これまたじっくりやるとイベントこれだけで終わってしまいますので、いずれ考えることにして、ここでは割愛します。
そーかー、美術とダンスで「チェイン・リアクション」のことを考えてきたのがいま映画が一個増えたわけだね、とお考えになったあなた!そうじゃないのです。この映像という手段は、実は、ダンスの問題にダイレクトに関わっているのです。少なくとも、次のフェルナンド・レジェの作品を見たりなどすると、そう考える可能性のあることが分かるはずです。
Ballet Mecanique
機械 映像 ダンス がここでは融合しています。その融合の要になっているのが、「チェイン・リアクション」だとしたら、どうでしょうか。
ある場面と別の場面が、ある時間と別の時間が、あるものとべつのものが、つながってゆくこと。おかしな「中継」。しかし、それがおかしいものであればあるほど、つながっていると思わされた瞬間そこになんともいえない感動が広がる。そんな中継のスリルをダンスと呼んでみること可能なのではないでしょうか。例えば、こんな「色」のダンスのなかにある「チェイン」のおかしさ、楽しさのなかに!
Mia Doi Todd Open Your Heart by Gondry
もう少し、このテーマ、書き続けたいのですが((3)についてまだなにも触れていないし)、さっすがに、長くなりすぎていると思うので、しばし休憩。
昨日から、NIke+ GPSと一緒にジョギングをはじめました。
今朝(6:50-)も。さむー。5キロほど。radiko.jpでJ-wave。二週間ぶりに戻ってきた別所哲也は鼻声でした。
今日は雨だそうです。ジョグの帰りには確かにちよっと降っていました。雨はでも春の兆し。
今日もSee Dance、たくさんダンスを見ていきましょう。今週は、ダンスウィーク!(個人的に)
さて、今日のテーマです。
なぜひとはチェイン・リアクションを見たがるのだろうか?
この問いに関して、暫定的ですが、解答を三点考えてみました。
(1)「生命」を見たいから
(2)異質なるものの生命の中継を見たいから
(3)世界を異質なるものの生命の中継として見たいから
(1)「生命」を見たいから
とても大きな話になりそうな解答です。そして、多分、そうしなければ語れないことであると思います。(ベルクソン「笑い」ことを以前ちょっとあげましたが、例えば、この時代のこうした著作のなかで考察されている生命の哲学は無視できないはずです。)
けれども、ちょっとその辺りの理論的なことは、いずれ考えることにして、いまここで行われているのは「イベント」=お祭りですから、こうした視点から感受できる興味深いポイントだけを指摘して、盛り上がってみる、ということに集中しましょう。
ルーブ・ゴールドバーグ・マシーンは、「生命」を見ることになる。そう思いませんか?
「ピタゴラ装置」
機械=生体。生体のような機械。それは、血液を次々とさまざまな部位に運んでゆく血管のように、玉を運んでゆくことで、ぼくたちはそこに生きたものの姿を一瞬(もちろんフィクショナルなものと分かっていながら)見てしまいます。それが面白いのではないでしょうか。
再度そう思って、フィシュリ・アンド・ヴァイスを見てみましょう。
Fischliand Weiss The way things go
彼らの「マシーン」は、科学的な変化を起こして進んでいきますので、物理的でありつつ、ときに生命を感じさせるものです。
さて、「Chain Reaction」展カタログでは、こうした「マシーン」の性格をダンスに引きつけて考えている作家のコメントがありました。ダイアナ・クーパー。彼の考えに、しばし、耳を傾けることにしましょう。
「 あることが別のことを導くというチェイン・リアクションの考えは、人間の身体と心が機能する仕方に似ています。ある意味で、私の心は、これらの問いに応答するために、チェイン・リアクションのメカニズムを用いているところです。つまり、ある思考が別の思考を導き、ということが引き続いてゆきます。即興的なダンスといたずら書きのドローイングの両方とも、チェイン・リアクションのような特質を有しており、私に影響を与えています。即興的なダンスは、避けようもなく身体的ですし、身体と心は、既にあったものにさらに付け加えられる連続する動きを数珠つなぎにしてゆくことに従事しています。即興を通してダンスを創造するとき、協調ならびに遊びの感覚が存在しています。Diana Cooper: The Idea of a chain reaction, that one thing leads to another, resembles the way the human body and mind function. In a sense, my mind is using the mechanism of a chain reaction to respond to these questions: one thought is leading to another and so on and so forth. Both improvisational dance and doodle-based drawing have chain reaction-like qualities and have influenced me. Improvisational dance is unavoidably physical, the body and mind is involved in stringing together a succession of movements that build on preceding ones. When creating dance through improvisation there is a give and take and a sense of play. 」(Chain Reaction, pp. 47-49)
「即興的ダンス」は「チェイン・リアクション」である、とはなかなか啓発的な発言ではないでしょうか。いや、はじめて見たときには、そんなことイメージしたかもしれないけれど、あっという間に、忘れ去ってしまった、そんな事柄かもしれません。クーパーがいいたいだろうことを、ぼくなりに噛み砕くと、即興的ダンスのなかで、身体と心は、瞬時に互いをアクションを起こしてきた対象とみなし自分の次のアクション(リアクション)を試みる、そうした関係にあるということでしょう。
A アイディア(心)
↓
B 実行(心→身体)
↓
C 心のリアクションとしての動作(身体)
↓
D Cに対するリアクションの必要(心)
↓
E 動作のリアクションとしてのアイディア(心)
↓
F 実行(心→身体)
↓
G 心のリアクションとしての動作(身体)
……
みたいなことではないでしょうか。(ちょっとややこしいですけれど)
さて、こうしたリアクションし合う心身の関係に似た関係が、コンタクト・インプロヴィゼイションの二組のなかで起きていると考えることは可能でしょう。そうであるならば、コンタクト・インプロヴィゼイションとは、ひとつの「チェイン・リアクション」なわけです。
これっていうのが見つからなかったので、サンプルとしてContact Improvisation with Stephanie Nugent
おそらく大事なことは、動作が手前の動作に対する「リアクション」であることではないでしょうか。「生命」を見るということは、かならずしも単体の生き物の生き生きとしたさまに感じるものではないかもしれません。なにかのリアクションとしてある欲望が、ある感情がそこに存在しているときに、リアリティのある生命のかたちがたちあらわれる、と考えるべきなのではないでしょうか。そういう意味では、ここにあるのは関係の表現なのです。「コンタクト・インプロヴィゼイション」が魅力的になっているのは、次々とうまくことがすすんでいる場合とは限らないのは、ここにポイントがあるのかもしれません。「関係」が意識されないほどに、するするとうまくいってしまうと、コンタクトの意味がなくなってしまうのです。ダンサーとしては、そうした美しさを目標にしたくなるかもしれませんが、見ている側としては、その美しさは、「はらはら」が減退してしまうがゆえに、望ましいものとはいいがたいところがあります。そんなことを思いながら、映像を見てみましょう。
強調しますが、アクションがリアクションであることを通して、生命は舞台にあらわれるのです。それを教えてくれているのは、身体表現サークルであり、contact Gonzoです。
(2)異質なるものの生命の中継を見たいから
なんだか、すんごく長いエントリーになってしまいそうな予感がしますが、ともかく続けます!
「関係の表現」ということに関わるのですが、「チェイン・リアクション」が面白いのは、「異質なるもの」の間で「生命」の「中継」がなされるからではないでょうか。
いわゆる「ピタゴラ装置」しかり、「The way things go」しかり。普段出会わないもの同士がたまたま出会い、ことを受け渡し続けている、というところに、魅力があるのです。その点で、「チェイン・リアクション」はシュルレアリスムの精神をいくぶんか携えている必要があります。「ミシン」と「こうもり傘」が出会ってこそ、「チェイン」することは面白いのです。その(シュルレアリスムの)程度が低くなると、見ている者は退屈になってきます。
おかなしつながり、それにもかかわらずたしかにつながってゆくこと。
これは、突飛な話に思われるかもしれませんが、映画でいう「モンタージュ」にそっくりです。
ということで、ザ・モンタージュ、エイゼンシュテイン「戦艦ポチョムキン」を見てみましょう。
Battleship Potemkin -Sergei Eisenstein
モンタージュは、別々に撮った、その意味で無関係ともいえる映像をつなげることで、ひとつのシーン、ひとつの意味を見る者に読み取らせる技法です。例えば、この動画の最初のカットでは
A「女が乳母車で階段を下りられずに四苦八苦している」 次は
B「階段を銃を前に向けた兵隊たちが並列して降りている」
わけですけれど、AとBは必ずしも、結びつきが自明であるわけではありません。たまたま並んでいるともいえる。しかし、その一方で、当たり前のように、見る者はそれをつながっているものとして見るわけです。ここには、モンタージュ映画独特の「チェイン・リアクション」が発生しているととらえることができます。その独自性については、これまたじっくりやるとイベントこれだけで終わってしまいますので、いずれ考えることにして、ここでは割愛します。
そーかー、美術とダンスで「チェイン・リアクション」のことを考えてきたのがいま映画が一個増えたわけだね、とお考えになったあなた!そうじゃないのです。この映像という手段は、実は、ダンスの問題にダイレクトに関わっているのです。少なくとも、次のフェルナンド・レジェの作品を見たりなどすると、そう考える可能性のあることが分かるはずです。
Ballet Mecanique
機械 映像 ダンス がここでは融合しています。その融合の要になっているのが、「チェイン・リアクション」だとしたら、どうでしょうか。
ある場面と別の場面が、ある時間と別の時間が、あるものとべつのものが、つながってゆくこと。おかしな「中継」。しかし、それがおかしいものであればあるほど、つながっていると思わされた瞬間そこになんともいえない感動が広がる。そんな中継のスリルをダンスと呼んでみること可能なのではないでしょうか。例えば、こんな「色」のダンスのなかにある「チェイン」のおかしさ、楽しさのなかに!
Mia Doi Todd Open Your Heart by Gondry
もう少し、このテーマ、書き続けたいのですが((3)についてまだなにも触れていないし)、さっすがに、長くなりすぎていると思うので、しばし休憩。
by kmr-sato
| 2011-02-14 11:01