身体表現サークル(2)

いま(2/11の14:07)息子(一才と20日)が背中で寝ている。妻は、昼前にバイトに出た。いままでは自由な時間だった部分が、かなりの割合で息子との時間になっている。うれしいが、時間的な余裕がなくなった。こんな感じの日々が1年続いた。

これが理由で、ダンスのことをブログなどで書かなくなったと思われるのはくやしいけれど、事実の面はある。もちろん、理由は育児だけじゃない。

朝、奈良美智の『NARA NOTE』を読んでいた。さっき、息子をおぶってからも少し読んだ。なんだか、奈良さんの言葉は、忘れていた部分を刺激してくる。

「自分の美術をもっともらしい思想と結びつけたりなんかしない」

なんて言葉が出てくる。作家にはそう思っていてほしい。どちらかといえば、ぼくの仕事というのは、美術(あるいはダンス、演劇)を思想と結びつける仕事かもしれない。作家の活動を歴史に照らして意義づける、というか。でも、簡単に意義づけられてたまるものかと思っているのも、よくわかっているつもり。あるいは、意義づけてほしいなんて、思わないでくれ、とさえ思う。そんなときのぼくは、ただ美術がダンスが好きなひとでしかない。そんなところにいる自分の存在を忘れたくないものだ。

身体表現サークルは、なんとなく見ていて切ない気持ちにさせられるグループだ。

子供の頃のときに感じ気持ちが、見ているうちに、じわじわとよみがえってくる。

お遊戯とかで、おんなのこと手をつないだときのこととか。やたらからだをさわってくる同性の男のこのこととか。

そうしたことは、ことさら思い起こさせようとしても、うまくいかない。マームとジプシーは「記憶」の演劇。だけれども、彼らのすごいのは、演劇内的記憶とでもいうべきものを作り上げるところにある。いくつかのささいなシーンを何度も何度もリプレイする、そうすることで、そのシーンを観客にとって、あたかも自分が何度も思い出してきた個人的な記憶のように、切実な記憶にしてしまう。けれども、あくまでも、その記憶は演劇内にて成立した記憶であって、マームとジプシーのすごさは、そうして記憶という装置それ自体を浮き彫りにするところにある、と僕は思っている。だから、テーマは「記憶とは何か」で「記憶とは何かを解析する演劇の可能性」こそ彼らの追求するところなのだろう。

と、長くなったが、記憶の作家にこうしたひとがいて、それとまた拮抗してもいい存在として身体表現サークルは、いるのかもしれない、なんて思う。

「接触」

例えば、矢内原美邦(Nibrollほか)ならば、体を踏んづけるとか跨ぐとか、そうした場面をつくることで、似たことをしてきたのかもしれない。(ほんとうに、子供は平気でひとの体を踏んづけたりするものだ。最近知った。)けれども、それは「接触」そのものというよりも「接触の振り付け」として展開される。見ていて「はっ」とするのだけれど、とはいえ、「痛そうだな」とか「ああこんな痛み覚えている」というリアルに身体にくる感覚は、身体表現サークルにくらべ希薄だ。すでに作家の手のうちにあるストーリーをこちらが推測し探り当て、そのストーリー越しに振る舞いを味わうというのが、矢内原的なやり方だとすると、身体表現サークルは、そうしたストーリーが希薄というべきかもしれない。あるいは、あまりに平凡で、作家性が薄い、ということかもしれない。

と、ここで、彼らの代表作を見てみよう。

身体表現サークル 「hiroshima rolling man」
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by kmr-sato | 2011-02-11 14:26


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