身体表現サークル(1)

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昨日、遠藤一郎の作品「せーの!」が届いた。これは、写真の作品で、昨年の「わくわく京都」で制作されたものだ。なんどかブログで書いたようにも思うのだけれど、「せーの!」には、エピソードがある。去年の夏、遠藤君やislandのみなさんがぼくの家に遊びにきたときに、確かその日に見に行った川戸由紀さんの作品の話をぼくがしたのだった。川戸さんは「いくよ」「いくぞ」という言葉が盛られた作品を作っていて、遠藤君に似ているということとか、そしたら遠藤君が「字の雰囲気が自分のとそっくりだ」といってくれたりとか、盛り上がった。そして、川戸さんの刺繍の中に出てくる「せーの」という言葉の話にもなった。
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「せーの」って考えてみたら、面白い言葉だ。

「息を合わせる」ときの言葉。

川戸さんは、いわゆる自閉症のひとで、NHKの「おかあさんといっしょ」とか、ディズニーランドのショーとかが大好き。工房にお邪魔すると、作品制作している最中、自分の好きな歌とか台詞のフレーズをラジカセで何度もリプレイさせて、盛り上がっている。そんなフレーズのひとつだったに違いない「せーの」。

ぼくはなんだか、この「せーの」にダンスを感じる。そのかけ声が届く人たちが一斉に息を合わせ、ほんのすぐ先の未来に向けて、気持ちをひとつにする、そのかけ声。その瞬間。なんだか、わくわくする。遠藤の作品も川戸の作品も、ぼくにとっては、その「わくわく」が純粋パッケージ化されたものだ。

気持ちをひとつにするなんて、なんだか北朝鮮お得意のマスゲーム?ナチスの体操?みたいでこわい!という解釈もあるかもしれない。そうそれはそうなのだ。ダンスは、その意味においてこわいものなのだ。これは、間違いない。恐ろしいくらい、集団をひとつにしていくものだ。盆踊りだって、、ライブで同じフリを踊ることだって、熱狂的にひとを統制してゆく機能があるのは事実だ。端から見たら、内側に入れない疎外感から、あいつらなんなの、といいたくなる。

ダンスは、でも、そうした統制を遊ぶゲームなのではないか。

V系のライブ会場にいるひとたち全員が「死ねー!」といわれたら、一斉に死ぬかといえばそんなことはないだろう(その極端な誘いまで「遊び」として楽しんで、結果、逝ってしまうことがないとは限らないけれど)。

そして「せーの」は案外難しい。気持ちをひとつにしようなんて思う、そんな条件を設定してくれる場なんてものは、そんなにない。ほとんどない。「勝ち組」「売れてる」なんて、盛り上がっている場みたいなものが強引に設定されて、「世の中そうなっているなら、そういうものなのね、じゃあ、そういうことで」って感じで、「気持ちがのる」というよりは「空気に合わせる」ということはそれなりにある。ぼくはこれを秋元康戦略と心密かに呼んでいますが、そうしたシステムばかりがぼくたちを支配しているとすれば、実は「せーの」と気持ちが合うことは、今生きていてあまりないこと、なのかもしれない。

むしろバラバラだ。

このバラバラをある程度積極的に活かしつつ、「せーの」へと誘うこと、そしてその「せーの」が遊びの状態のままにしておくこと。

ぼくが「ダンス」に求めているのは、そんなことなのかもしれない。


と、いうことで、イントロはこのくらいにして、
あらためて身体表現サークルを見てみようと思います。

身体表現サークル 横浜トリエンナーレでのパフォーマンス 2005

できたら、映像見ながら読んでくださいね。
ぼくもこの上演見ていたと思うのですが(別の日だったかもしれません、けど)、今見ても、インパクトあります。いや、今見た方が、面白いのかもしれない、とさえ思います。
まず、お尻のインパクトがすごいです。
「ふんどし姿で人前に出てくる若者」というだけでそうとう「おかしい」感じがしました。衣服をまとって気取っていても、脱げばみんなやわらかい・脆弱な身体=機械を動かして生きているわけだ、という風に見える。女子はさすがに露出は少ないけれど、ふんどしは締めていて、一様な存在になっている。

この気取らない(あまり、フィジカル的にかっこよくない)身体が表現の空間にぼてっと置かれていること、このことの可能性が、当時、身体表現サークルの周りで輝いていました。いまみても、この脱力感いいですよね。「エリート身体」への批判というのは、当時、桜井圭介さんともよく話題にした点ですが、ようは「エリート身体」は、その身体から「エリート性」ばかりが目立ってしまい表現の次元が見えてこないところに問題があります。いや、エリート身体だからこそ可能になる表現があるのは事実ですが(チェルフィッチュの役者たちはその典型例でしょう)、エリート身体であれば表現的であるわけではないし、エリート身体はなにかの表現のための手段であるはずが、それ自体が目的に見えてしまうような事態にしばしば遭遇してしまう現状があります。「こんなことができるんだぜ!」という振る舞い。アスリート的というか、こうした傾向というのもダンスにあっていいのかもしれませんが、そこで観客ができることといえば、「すごいですねー」と感心することくらいでしょう。「感心」させることが目的ならばわかるのですが、しかし、それは芸術表現じゃない。

この気取らない身体が表現の空間に置かれるメリットは、「身体のマテリアルとしての性格」をシンプルに観客が味わえる、という点にあるとぼくは思っています。「身体ってこんなことになっちゃうんだー」ということ、その発見それ自体が、見るべきものになる、ということです。

それは、身体の機械化といってもいいでしょう。

身体表現サークルを見ていて失笑せずにはいられない(ですよね)。それは、まさに、身体が機械的性格を帯びてしまっているから、なのではないでしょうか。

ふんどしを巻いたほっぺ叩きマシーンと化したひとたち。

そのあっさりと「機械化」してしまったひとの群れがおかしい。

淡々としていればいるほど、その機械性が際立つし、そこに誘われたこと、誘惑性が際立つ。

なぜこのひとたちは、こんなになってしまったのか……。

そう思いつつ、もちろん、それがひとつのゲームなのだということも、十分意識しつつ、それでも、そこで起きている「人間の機械化」をくすくすと笑いながら見つめずにはおれない。

でも、これ「せーの」じゃ、ないですね。

「せーの」で想像するのは、同じ動作を一斉にすること。でも、身体表現サークルのこの作品は、ダンサー一人一人は、すべてのダンサーと同じこと「隣の人からほっぺを叩かれ、その勢いで、隣の人のほっぺを叩く」ということを、連鎖反応的に、つまり、時間をずらして行うわけだ。待って、叩かれるダンサーは、孤独にも見える。けれども、叩いて叩かれての状態には、接触の快楽も伴っている気がする。どさくさにまぎれて、他人に触れちゃっている(他人を叩いちゃっている)。まあ、ひとは叩いちゃいけないですよね。でも、「そういうルールなんで」ということで、叩いてしまう。そうしたところも、この作品の面白さだろう。

ルールが遂行者に自由を与える

とでもいえるだろうか。
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by kmr-sato | 2011-02-11 10:35


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