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「即興二番」+ベクトルズ

snacに詳細がアップされました。

2日通し券もあります。早めにご予約されることをおすすめします。(席数がきわめて少ないのです)

いうまでもなく、ダンス界における今年の最重要イベントのひとつです。ベクトルズも準備万全にして臨む予定。

後日、室伏鴻をめぐるエッセイを毎日連載するつもりです。


「室伏鴻の考えるダンス」とは何か!
# by kmr-sato | 2011-05-14 08:21

室伏鴻待望の日本公演!

室伏鴻が待望の日本公演を行います!

6/3+6/4場所はsnacにて。

タイトルは、

「室伏鴻の「即興二番」+ベクトルズ」

です。

いままで室伏鴻のパフォーマンスを見たことのないかた、何度も見ているかた、お見逃しなく!

そして

「+ベクトルズ」

です。

なにをするかは、追って告知いたします。
# by kmr-sato | 2011-05-12 20:11

「現代のアイドルとしてのAKB48」

昨日は、上記のタイトルのレポートを一週間で書いてもらって、それを素材にゼミを行った。卒論を12月まで(三年生は来年の12月まで)に書くために、ゼミでは「問いを立てる」「分析をする」「比較をする」「文献を調べる」というテーマで7月末まで進んでゆく(いまは「問いを立てる」。卒論で言えば、「序」を書く作業にあたる)。35名ほどいるゼミ生は、興味関心が多種多様で、共通の課題を出すことがとても難しいのだけれど、これならば全員書けるだろう、と思ったのがこの課題だった。つたない文章が多いのも事実ですが、ちょっと面白い!ぼくとゼミ生だけが読むのではもったいない!と思ったので、学生たちに許可を得て、名前なしの状態で、ここに掲載します。(29本。掲載順は、優劣を反映したものではありません)

(1)
(2)
(3)
(4)
(5)
(6)
# by kmr-sato | 2011-05-11 06:05

「現代のアイドルとしてのAKB48」(6)

26 現在メンバーがファッション誌やイベントに登場したりブランドのイメージキャラクターに選ばれたりと、男性だけではなく女性へ向けた活動が活発化している。恋愛ゲーム『AKB1/48アイドルと恋したら…』が発売された際、通販サイトの楽天市場が調査したところ購買者の約2割が女性であった。YouTubeではダンスをコピーした映像をアップロードする女性も多く、同性からの支持や関心が高まっている事がわかる。この事からレポートを書くにあたって「女性アイドルにおける同性ファンの心理とは何か」という部分に着目した。
 現在、音楽を聞く手段として携帯電話の着うたがある。日本レコード協会が09年に行ったユーザー調査によるとその利用率は女性が圧倒的に高く、幅広い年齢層に利用されている。昨年の着うたランキングでAKB48の楽曲は100位中25位が最高位で、上位は女性アーティスト等が占めている。この事から女性たちにとって、同性のアイドルにおいては楽曲以外に求める物が多くあるのではないかと考えた。
 まず、ファッション等の見た目が与える影響がある。女性ファッション誌でコーディネートを紹介したり、着用した衣装の柄が流行したり、容姿の面で与える影響は大きい。ダンスにおいては可愛らしく、覚え易いという点でコピーする人が多いのではないか。しかしこの見た目以上の精神的な面での理由があると考えた。
 常に多くの比較対象がいる、女性だけの集団の中でメンバーにとっては自分の個性をいかに発揮し、役割を見極めるのかが重要となる。この行為は私たちの普段の生活と重ねる事ができる。私たちも所属するコミュニティの中で同様の行為を無意識にしているのだ。「集団の中の1個人」として共感し、自分と近い役割、または憧れとなるような存在を見つける事もできる。メンバー達が同性だけの集団の中で競い合いながら成長していく姿を自分に重ねられる部分に、女性から支持の理由があると思う。
 アイドルが一人の女性としてどのように成長し、集団の中での役割を果たしていくのか。精神的な面でメンバーを身近に感じ、その中に自分自身を見つけようとする事が同性のアイドルに対する女性ファンとしての心理であり、支持の理由なのだと考えた。

27                 今や国民的アイドルとも言われているAKB48。どうして今こんなにも人気があるのか。私はその理由として二獣類のファンがいることが挙げられると思う。

1,地下アイドルのAKB48
 AKB48に関して歌やダンスのプロ集団を目指しているのではなく、可能性を集めて成長する過程を見せているというファンの意見が存在する。これはメディアを通して「理想的な女の子」をファンに見せていた従来のアイドルとは異なり、その前の状態、つまり本来であればメディアに出す以前のアイドルの状態をAKB48は今現在メディアを通して私たちに見せているということである。 アイドルオタク、特に地下アイドルと呼ばれる劇場公演型のアイドルのファンたちはまだ「未完成な女の子」を応援し、自分たちの応援によって大きくなって行くことに喜びを感じる。アイドルとして「成功」したらそのファンをやめて新人アイドルのファンになる、という人もいるくらいだ。昔からAKB48を支えてきたのはやはりこのようなアイドルオタクたちだったと言えるだろう。

2,『理想的な女の子像』の消失
 では、「アイドルオタクではないAKB48のファン」とはどのような人々なのか。まず、従来のアイドルとは、「理想の女性像」を提供する存在だったといえるだろう。それは、控えめで男性を立てるといった「大和撫子」のような像だったのではないかと思われる。しかし近年ではもはやこの「大和撫子」を見ることはほとんどない。それどころか、「のだめ」や「ホタルノヒカリ」のようにだらしのない女性像がメディアに載って認知され、またそれに共感する女性まで出てきてしまっている。これは女性の社会進出に伴って、「男性と結婚して家庭を守ることが女性の幸せ」という価値観がもはや古い考えになってしまったせいではないかと思う。男性に養ってもらわずとも生活できる女性が増え、もはや男性の理想とする女性像を演じる必要がなくなってしまったのである。化けの皮がはがれた女性たちを見て「大和撫子」を知る男性たちは批判もしただろうが、世代が変わりそんな女性を見て育った世代はもはやそれが「普通」になってしまい、現実的になり、「理想の女の子」は自分の世界にはいないことを悟ってしまったのではないだろうか。
 また、「会いに行けるアイドル」がコンセプトのAKB48は「ファンとの近さ」を売りにしている。これは劇場に行けば会えるという物理的な近さの他に、「クラスで5~10番目に可愛い女の子」を集めたというAKB48が従来の「高嶺の花」のような存在だったアイドルと比べて親近感もてるという心理的な近さも含んでいる。つまり、「高嶺の花を本気で応援してるのではなく身近な女の子について可愛いとコメントする」というような気軽さを持ってAKB48のファンを名乗ることができるのである。私は、AKB48のファンの多くはこのようなライト層ではないかと思っている。

3,まとめ
 これらのことから、AKB48は「成長過程を見せる」ことで従来のアイドルオタクを、また「気軽に」ファンにすることで「理想を信じない」年代から人気を得ることに成功している。ゆえに、AKB48が今後も人気を継続していくためには、後者は「気軽に」他のコンテンツへ興味を移してしまうライト層、もう一歩踏み込んだ「ファン」にすることが必要である。しかし、彼女たちが成長しきり、本当の「アイドル」になる日はくるのだろうか。

28              AKB48とは「競争と自虐から生まれる“リアル”なキャラクター工場」なのではないだろうか。
彼女たちの活動に付きまとうのは “競争”だ。選抜総選挙や派生ユニットへの参加など、ファンからの人気や運営側の期待値が目に見え、常に競い合う環境にいるためだ。
しかしそこには、もう一つの側面“自虐”が隠れている。例として、メンバー総出演のドラマ『マジすか学園2』第2話での台詞が挙げられる。場面は、渡辺麻友扮する“ネズミ”と、4人のアンダーガールズ(主にシングル曲選抜から漏れたメンバーで構成される、カップリング曲を歌うためのユニット)からなる“チームアンダー”の対決。あっさり倒されうずくまるチームアンダーに、ネズミは「そんなんじゃ、いつまで経ってもアンダー止まり。他人の背中しか見えねぇんだよ!」と言い放つ。昨年の総選挙5位の渡辺とチームアンダーの4人は同期だが、順位やメディアでの露出度は渡辺が4人を見下ろす形になる。物語とはいえ、シビアな現状を演じている彼女たちに自虐性を感じずにはいられない。また、このドラマの企画・原作は秋元康であることから、こういった場面を設定する制作側にも自虐性を見て取れる。他の番組でも様々な“自虐”を見ることができるが、それが結果として個人のキャラクター(役割 ex.ヘタレ、スべるなど)を明確にしている。つまりAKB48は、競い合わなければならない状況の中で、あえて自分を貶める“自虐”ネタを用い、各々が唯一のキャラクターを作り上げようとしているのだ。何故なら、そのキャラクターこそが生きる術となり、“競争”に勝つ武器となるからだ。
競争社会を悩みながらも進み、かつさらけ出した姿は「完成された製品としてのアイドル」像を保とうとしていた時代に比べてより身近に、より現実的に「リアルな存在としてのアイドル」を感じさせてくれる。だが同時に“自虐”を推し進め、キャラクターをピンポイント化することは “リアル”をどんどん一面的にし、リアルを見る(見せる)機会を奪う危険性をはらんでいる。こうした危険は身の回りにも潜んでいるように思えてならない。そういう点ではアイドルも一般人もあまり変わらないのかもしれない。

29                 素人っぽさをうりにして居るAKB。これは人気になるべくして人気になったのではないかと私は考える。
現代はとかくつながりを求める時代である。いや、もしかしたら現代だけではなく昔からそうなのかもしれないが、ここでは現代に限って考える事にする。
私はアンダーグラウンドの世界と現代のアイドルとしてのAKBは共通点が多いにあると考えている。それは「つながり」という点に於いて最もよく考える事が出来る。
アンダーグラウンド(以下アングラと略させていただく)の世界は、いつも「つながり」を求めてきた。60年代ではロックンロールを通した飲み屋にたまりつながりを求め、70年代で言えばドラッグやヒッピー系と言った服装でアングラ系の若者は仲間意識を通してつながり、80年代~90年代になればSMやハプニングといったものを通じて奇抜な恰好でクラブに集まり、昨今でもフェティッシュやアニメ等の趣味を持った者が奇抜な服を着て同じ趣味を持った仲間と繋がっている。
つまり、現代のアングラは素人のつながりを求めているのである。
AKBはもちろんプロのアイドルではあるが、素人っぽさ、そして「会いに行けるアイドル」として劇場でほぼ毎日公演をしている。しかも舞台はライブハウスや小さなクラブの様であり、観客との距離が非常に近く、また特別過ぎる、大規模な演出がない。
つまりAKB全体としては、プロの様に特別な時に、特別な感覚でしか会えないのではなく、AKBというショーガールがレギュラーパフォーマーとしているお店にいるという感覚に近いのではないか。
劇場にいくファンは、ファン同士でつながり、また好きなパフォーマーを近くでみる事ができる。それはクラブに行く客と似た感覚なのではないかと私は考える。
また、素人っぽさというのも現代のアイドルとしては重要である。
AKBの衣装は基本的に制服や私服(水着)をモチーフにしている。これが素人っぽさを出す上で大きいと私は考える。
一斉を風靡し、まだまだ根強い人気を誇るハロープロジェクト(以下ハロプロ)は、間違いなくプロのアイドルである。先程述べた様なAKBの劇場の様に気軽に会いに行けないという事も会ったが、彼女達がプロなのはやはり衣装にあると思う。
ハロプロは、曲のテーマに合わせて衣装を変えている。例えばエスニックな曲調ならばエスニックな衣装、夏の歌ならば船員、歌詞にジーンズと入ればデニム生地を使うなど、徹底している。
パフォーマンスをする人、プロのパフォーマンスをみたい人の常識として世界観を徹底して固定し、引き込むというものがある。つまり、彼女達はパフォーマーとして、非日常の中で完璧に生きている。
非日常のものとは勿論つながることは不可能であり、またお互いに大多数はそれを望んではいない。
しかしAKBはどんな曲でも制服や私服(水着)がモチーフの衣装であり、世界観を徹底することはない。これが観客にもパフォーマーにも一部日常の感覚を感じさせる事ができるのである。つまり、学芸会の様な感覚になるのではないか。
学芸会は「内輪のもの」である。つまり、出演者と観客は繋がっていて、観客同士も繋がっている事がある。
出演者と繋がっていれば観客はなんだかほほえましい感覚になり、パフォーマンスがイマイチでも笑ってその努力を認めてしまう。
また、観客同士がつながることで「内輪ネタ」で楽しむ事ができる。
つまり、AKBのファンはパフォーマンスを求めているのではなく、内輪の用語が沢山あったりする事から、つながりを求めているのではないかと私は考える。
そしてAKBは現代のアイドルとしてパフォーマンスというよりもつながりを提供しているのではないだろうか。
つながりはアングラの世界で重要なものであり、また人がアングラの世界の「住人」となる大きな要因である。
AKBのファンはもしかしたらアングラの世界にはまる可能性が大きいのかもしれない。また、AKBがもしメジャーなものでなくなったとしてもアングラ文化として進化し得る可能性は十分にあると私は考えている。

参考文献:下関マグロ著 東京アンダーグラウンドパーティ 二見書房 2006年

30 今回は、AKB48における「推し」の存在について述べてみようと思う。
「推し」とは、ファンの中で使われる専門用語で、自分がどのメンバーを一番に応援しているかを表すときに使用される。「推し」は一般的に一人で、二番目に応援しているメンバーを「二推し」と表現することもある。
なぜ「推し」という表現が存在するのであろうか。何も応援しているメンバーを一人に絞ることはないし、「推し」という言葉により周囲に告知する必要も本来はないはずだ。
私はこれを、人間の二つの意識が生み出した言葉なのではないかと考えている。
一つは、日本人特有の集団心理だ。孤立した存在であることを嫌う日本人独特のもので、自分がどの集団に属しているのかを確認したがる。自分がAKB48の中の「あっちゃん推し」という集団であることを示すことにより、自分自身が一人ではない、何らかの集団に属している存在であるということを確認する意識が 働いているのだと私は考えている。
二つ目は、集団の中に埋もれたくないという自己顕示欲の現われではないかと思う。「推し」や「担当」という言葉が使用される対象のアイドルは、ファンのコミュニティが比較的大人数であることが多い。そのため、自身の存在というものをなかなかアピールしにくい。しかし「推し」という言葉を使用することにより 、AKBファンという大きな集団が、あっちゃん推しという集団にまで狭まる。その分自身の所属がはっきりするのだ。
この二つの意識は、何も「推し」という言葉だけに表れているのではない。例として、「推し歴」というものがある。自分がその推しをどれだけの間応援しているか、ということを示す際に使われる言葉だ。推し歴が短ければ短いほど、ファンの中での地位は低いものとされる。このようなファン区分もまた、上記二つの 意識のもとに生み出された区分なのではないかと私は考える。
今、AKB48のファンという集団は拡大し続けている。拡大すればするほど、ファンたちは「推し」や「推し歴」で自分達を区分し、自分の地位の確立を図る。そのような行為により、ファンたちは満足を得ているのではないだろうか。
# by kmr-sato | 2011-05-11 05:59

「現代のアイドルとしてのAKB48」(5)

21 ひとつめ
 選べる手軽さ、身近さ。一昔前のアイドルといえば、松田聖子のような国民的ミューズもしくはモーニング娘。のような、誰が見ても納得のだいたい美少女集団であり、崇拝すべき対象だった。しかし、現代のアイドルであるAKB48は違う。一クラス分ある人数の中から自分好みの子を選べ、消費できる(推せる)こと、ファンに選択の余地があること、つまり与えられるもの全ての消費から選択する消費へとの変化こそが非常に現代的だと感じる。もうひとつ、今は会いにいけないアイドルになりつつあるが、コンセプトの「会いにいけるアイドル」はアイドルの敷居をぐっと下げたように思う。かわいいあの子に会いにいく、応援するという一見対等な関係がファンの「俺がアイツを育てる」という欲望を満たしているのではないか。現代ではインターネットなどを通し、一般人でも自由に批評や意見を発信することが容易なため、一介のファンがインターネット武装をすることで大きな影響力を持つことも不可能でない。そんなこともあり、本来あった上下関係のようなものがとりこわされ、対等もしくはそれ以上の立場のような関係ができあがる。価値観の多様化や国民全員発信者という現代の特徴にあわせて、アイドルのあり方も変化するのだと思った。ということは、アイドルをじっと分析すれば、その時代の人々の状態もわかるのか!アイドルすごい。
ふたつめ
 祭りのあるアイドル。もふくちゃんこと福嶋麻衣子氏の著書「日本の若者は不幸じゃない」の書中に「学園祭ビジネス」という単語が使われている。もふくちゃんの作った言葉で、学園祭を作りあげるような一体感、居場所をビジネスとするものであり、ファンと共に祭を行うまでの準備期間にこそ価値があるという。AKBでいうところの、総選挙がこれにあたるだろう。総選挙まで、アイドルとファンが協力して票集めをする。モー娘。メンバーはファンのいないオーディションによってプロデューサーによって選ばれるが、AKB選抜メンバーはファンによって選ばれる。当然、推しメンを選抜入りして活躍させたければ、票集めのがんばりが必要になる。時にファン同士でネット掲示板やブログ、SNSを通して呼びかけあったり、投票数を報告しあったりしながら、祭りの準備をしていく。そうして、祭り本番を向かえ、さらに大きな一体感と達成感、そしてアイドルからの「ありがとう」により、それまでのがんばりが報われる。時にサプライズによって新たな祭りへとシフトしていく。終わらない学園祭が、ここにはある。このようなファン同士、ファンとアイドルの一体感こそが、個人化している現代人が求めるものであり、現代でAKB(他にも今ブームの地下アイドルなど、身近なアイドル)がウケる理由ではないか。

22               現代のアイドルを応援するためには、テレビの前にいるだけでは足りない。アイドルは昔から“ブラウン管の向こう”にいる遠い存在だが、現代ではそんなに遠くないのかもしれない。AKB48は身近なアイドルとしてデビューした。遠くからテレビを通してみる、なんとなく現実から離れた存在ではなく、小さなライブハウスで実際に会うことができる。デビュー当時に比べチケットが入手困難になった現在でもこのようなファンとの繋がりは守られている。もはやファンにしてみても、テレビの向こうからアイドルに憧れを抱くだけでは弱い。CDを買うのも当たり前。もっと積極的に参加していかなければならない。ライブに行って実際にアイドルに会うことによってこそ堂々と自分はファンだと宣言できるのだろう。
 現代はアイドル戦国時代といわれるほどアイドルがあふれている。私自身は“不真面目な消費者”であり、アイドルたち、その曲の一つ一つを差別化していくのは困難である。このような受動的な消費者はどんどんアイドルの世界から取り残されてしまう。充実したネット環境が要因の一つだろう。CDを買わなくても曲やジャケット写真、歌詞は簡単に手に入る。この方が安く手間もかからない。少し気になる程度ならYou Tubeで聞けば十分である。しかしファンにとってはCDの特典が重要である。AKB48の場合、AKB商法と揶揄されもしたが、CDに限定の写真や総選挙の投票権を封入し、そのCDの付加価値を高めた。どのファンでも平等に恩恵にあずかることができる。ここがAKBの魅力の一つでもある。
 アイドルは消費者を巻き込んでいかなければならないと同時に、視聴者自身も積極的に参加していかなければならないのである。この二点においてAKB48はある程度の成功を収めたのではないか。そしてかつてのアイドルという遠いいわば非現実的な存在をリアルの世界に生きる個人であると認識させた。AKB48はファンや消費者はアイドルと決して交わらない世界ではなく、身近な存在であるという現在のアイドル観の先駆者であるように思う。

23                “現代のアイドルとしてのAKB48”。そう聞いて私が真っ先に思ったことは“現代のアイドルとしてではないAKB48”とは何かということだった。そしてそこから行き着いたことは、秋元康プロデュースという点で、現代のアイドルである“AKB48”と現代のアイドルではない“おニャン子クラブ”の比較であった。
まず、私が注目したのは、楽曲である。双方のほとんどの楽曲が秋元康によって歌詞されているのだが、ゆえに、似たようなタイトルも多数存在している。たとえば『セーラー服を脱がさないで』/『制服が邪魔をする』、『およしになってね TEACHER』/『Dear my teacher』、『真っ赤な自転車』/『2人乗りの自転車』など、前者がおニャン子クラブ、後者がAKB48なのだが、非常によく似ていることが分かる。しかし、タイトルが似ていても歌詞はその時代のアイドルという存在をよく反映していることに注目したい。
アイドルの黄金期とも呼ばれたおニャン子クラブの時代。素人っぽさを売りにしていたとはいえ、やはりアイドルはどこか手の届かない別世界の存在であった。メディアへの露出がテレビに限られており、また握手会なども極めて少なく、プライベートが謎に包まれていたからだ。つまり、アイドルはファンの想像で作られており、アイドル自身は常に受け身の状態であったのだ。
それに比べ、アイドル戦国時代と言われている現代はどうだろう。現代のアイドルの代表であるAKB48を見ると、「会いにいけるアイドル」というキャッチコピーの通り、劇場公演や握手会を頻繁に行っている。またメディアの露出もテレビに限らず、近年発達してきたWebや携帯など幅を広げている。ブログというコミュニティツールも、アイドルたちが自分たちと同じ世界にいると実感できる一因と言えるであろう。つまり、アイドルはファンの想像で存在しているのではなく、アイドルという存在を自らアピールしているのだ。
そう考えると、おニャン子クラブの歌詞は、過激なことも言ってはいるが、しかしながらどこかイメージ通り、可愛らしく恥じらいのある禁欲的で草食的な歌詞に。AKB48の歌詞は、現代の女の子の本音をストレートに歌った肉食的な歌詞が多いことに気が付く。たとえば、セーラー服を脱がさないで(『セーラー服を脱がさないで』より)/キスしなさい(『制服が邪魔をする』より)、およしになって TEACHER(『およしになってね TEACHER』)/Kiss me BABY!(『Dear my teacher』)、このままどこかに連れてって(『真赤な自転車』)/君となら走り続けたい(『2人乗りの自転車』)などが挙げられる。
 よって、“現代のアイドルとしてのAKB48”とは、握手会や現代ならではのブログなどのコミュニティツールを使ったり、本音を歌うことで、ファンとの距離を縮め、同じ空間に存在しているということを実感させてくれるアイドルではないかと私は思う。そして、そんな身近なアイドルの存在が多くの人々に受け入れられ、求められているのが“現代のアイドル・AKB48”を支えているのではないだろうか。

24                 AKB48は「会いにいけるアイドル」として2005年に秋葉原からスタートしたアイドル集団だ。いまや日本で「AKB48」を聞いたことのない人はほぼいないと思われるほど有名になっている。
AKB48は女子だけで構成されているが、男性のみならず同性にも大きな支持をえている。AKB48は先ほども述べたように、元々はふつうの女の子たちだ。アイドルになるために奮闘する様子は多くの人々に勇気と力を与えてきたようだ。そして、いくつかのチームに分かれていて、選抜や総選挙などのイベントを おこなう。活動全体でキャッチコピーを多用する。これは、ひとつの学校生活のようだ。ひとりのお気に入りを応援し、その子を通して努力・友情・夢などを共有し、一種の女子校生活を疑似体験できる。「青春2回目を体験しているようだ」という声を聞いたことがある。これは大規模な集団だからこそできることである。
そして、楽曲がとても多い。自分たちのチームをおす歌が面白い。「チームB推し」という、その名とおりチームBが自身たちをプッシュする歌だ。アイドルとしてアイドルの自分たちを売り込む歌詞。歌の中には一人一人の名前と決め台詞のような見せ場があり、ファンも大いにもりあがる。これは逆にもともとB推し のファンをガッカリさせたかもしれないが、この歌の楽しそうな雰囲気に新しくB推しになった人も多い模様である。
こうして大きくなってきたAKB48だが、アンチや無関心も存在する。実際私はあまり関心がないし、どちらかというと悪い印象をもっている。以前彼女たちがゲームやトークするテレビ番組をみたとき、彼女たちを怖いとおもった。どこか必死さややり過ぎ感があったからだ。そのある種の滑稽さは「かわいい」を通 り越して「痛々しい」とすら感じさせた。
しかしこれはアイドルたちが歌以外をみせる、ステージ上でのオフ状態ともいえる。AKB48は成長する集団であり、ファンたちはそれを見守る親の目だ。歌っているのとは違う姿を親の目で見るからとてもかわいいのだろう。
現在研究生も含めると48という数字からはかけ離れた人数を誇るAKB48だが、これからはどう成長していくのか気になるところである。

25          「グループアイドル」の良さとは一体何だろうか?
2005年に秋元康プロデュースによって誕生したAKB48(AKB)。私が彼女たちを知るようになったのはその数年後だが、第一印象も特にぱっとしたものではなかった。女の子がたくさんいるグループがまた出来てたのか、程度である。
「また」というのは、私が小中学生の時に全盛期であったモーニング娘。(以下モー娘。)をふまえての印象だ。当時友達の家に行くとみんなでモー娘。の振り付けビデオを観てダンスを覚えたりしていたが、私にはいまいちその良さを感じることができなかった。その思いがAKBを知った時再び私の中に現れたのだ。
特にずっと感じていたのは、「たくさんいれば良いってもんじゃないだろう」という思いである。AKBやモー娘。以前にも、女の子が群れになって歌い踊るグループアイドルと呼ばれる存在はいくつも居る。その多くが解散していく中でなぜこのように繰り返し「グループアイドル」が生まれていくのだろうか? 先述したように自分がリアルタイムで聞いて育ったモー娘。と比較しながら「グループアイドル」としてのAKBについて述べたい。

私はJポップ批評の雑誌を読んでいてこのような文章を見つけた。
“〈娘。ライブ〉観賞は、アリーナ席でなく4階席が最高!”
“娘。ライブの最大のウリは、集団が醸し出すダイナミズム…とするなら、それを最も堪能できるのはアリーナではなくて後方席なんじゃない?”
この部分を読んで驚いた。アイドルを見に行くのなら、いやアイドルに限らず、自分が好んで行くライブは出来ればステージの近くで見たいと思うのが当たり前ではないのだろうか?という私の考えに対し、この発言は著者がモー娘。をアイドルではなく「グループアイドル」として見て、ライブを楽しんでいることをよく表している。さらに、人気の高いとされる『Mr. Moonlight~愛のビッグバンド~』のPVに関しては
“なんのことはない、この曲では、主役の吉澤・準主役級の後藤となっちの3人ばかりに焦点が当てられている。そのせいで、他のメンバーの動きがまるっきり単調になりがちで、娘。の「群舞」の面白さがまるっきり損なわれてしまっていたのだ”
もちろん必ずしもモー娘。ファンのすべてが同じように考えているわけではないだろうとは思うが、群れで歌い踊るという点がモー娘。の大きな魅力であるということがわかる。
ではAKBはどうだろうか。いまやよく知られた情報だが、彼女たちAKBは「会いに行けるアイドル」をコンセプトにしたグループアイドルである。遠い存在であったそれまでのアイドルとは違い、毎日専用劇場で公演を行う「生」を可能にしたアイドルなのだ。決して大きくないその劇場で、ファンは間近で彼女たちの姿を見ることができ、そうするとメンバーひとりひとりをじっくり見つめることもできる。そうして自然とその中から自分が特に応援するメンバーが出てくる。グループアイドルでは必ずといっていいほど、特に○○が好きと言うファンがいるが、これまではなかった「推し」という言葉を流行らせたのは他ならぬAKBである。AKBは、「個」を重要視した「グループアイドル」なのではないだろうか。
また、各TV番組や雑誌ではメンバーが1人ずつで出ていることも実に多く見られる。どこに出るにしてもあの大人数で出るのはさすがに限界があるとは思うが、特に人気のメンバー数人で出演、というわけでもない。ここでも「グループの中の個」を見せていると感じる。対してモー娘。は、メンバー全員以外でメディアに現れたのはほとんどが卒業してから、もしくはソロデビューした時くらいだったように思う。
たとえばAKBのあっちゃんこと前田敦子が元々ソロでデビューしていたら、彼女は今ほど人気になっていただろうか?おそらく出ていないと私は思う。あの人数の中で歌い踊るからこそ光り、つい目で探してしまうのだ。

年齢の近い同じグループアイドルだが、視点を変えると「グループ全体を見せる」モー娘。と、「グループだからこそ、その中で個を見つめる」AKBという見方ができる。
# by kmr-sato | 2011-05-11 05:58


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